日々霜

本とかゲームとか雑記とか小説とか。好き勝手。

ペンギン・ハイウェイを夏に読むか観るかしてほしいな、と私なんてものは思います

この夏、『ペンギン・ハイウェイ』がアニメ映画化しました。

 

私は森見登美彦の原作が好きで、好きで、好きだったので、アニメ映画化すると聞いたときの驚きと興奮が大きく、さらに制作スタジオをはじめとして、制作サイドの情報が出れば出るほどさらにドキドキが止まらなくなりました。

そしてついに上映が始まり、先日早速見て参りました。

結論を言うのなら、めちゃくちゃ良かった!!音楽も映像も!…なんだけど、結局のところ私はやっぱりこの話が好きなんだなとあらためて強く感じた。映画が、原作をすごくリスペクトして忠実に描いてくれたから余計にそう思うのだろうな。

ということで、2013年に書いた、森見登美彦のペンギンハイウェイの読書感想文というか考察を、思いを、なんとなく再掲します。映画を見てあらためて考えたこともあったんだけど、なんだかんだで言いたいことの根本はここにある気がする。

 

 

 

ペンギン・ハイウェイはアオヤマ君の一風変わった成長物語」

 

主人公のアオヤマ君は、賢すぎる小学四年生だ。知識量は勿論のこと、友人間の対応も大人顔負けである。クラスメイトから腹立たしい挑発をいくら受けようと怒らないし、小学校に入った時点ですでに泣かないことを自分で心に決めている。それでいて向上心に長けており、毎日の研究や日記を欠かさず、勤しんでいる。そんな彼に、難解な研究テーマが立ちはだかった。それが、極普通の街に突如現れたペンギンの群れであった。


アオヤマ君は、子どもである。知識があっても、経験が足りない。しかしアオヤマ君は、自分に経験が足りないことすら悟っている。だからこそそんな彼は、ただの成長物語ではない、大人ですら解明できない超常現象という謎を含んだ、SF成長物語の主人公という役を担うことになったのではないか? それが私の考える『ペンギン・ハイウェイ』のメタ的コンセプトだ。

繰り返すけれどアオヤマ君は、本当に賢い。そんな彼が脳みそをフルに回転させてまで考え込む。アオヤマ君が悩み続ける姿をのほほんと見つめるのが、歯科医院のお姉さんである。お姉さんとペンギン現象は深い関わりがあることをアオヤマ君は発見するが、研究は行き詰まるどころか、ペンギンなんて目じゃないような、新たな謎が増えていく一方だ。


歯科医院のお姉さんは、この物語における大人代表である。お姉さんは決して頭が悪いわけではないが、知識をあまり重要視しない。さらに、自分がアオヤマ君の解こうとしている謎に関わっていることを知りつつも、自分がどうして関わっているのかを知らないし、自分では解明しようとしない。謎解きは全てアオヤマ君に任せる、というスタンスなのだ。

もう一人代表としてアオヤマ君のお父さんがいる。お父さんは決して確信的なことは言わないが、アオヤマ君が次に行動すべきヒントをくれる。このように、この物語の大人たちは少し都合が良いと思えるくらいに、アオヤマ君の成長物語において良いバランスを保っている。

謎が解明に近づいていくにつれて、アオヤマ君は知識に頼りきるのではなく、どんどん感覚が研ぎ澄まされていく様子が見て取れる。ある日お姉さんと二人でプールサイドに佇みながら、アオヤマ君はふと思う。

 

(前略)……今日のこともノートに記録するだろう。だから、どれだけ未来になっても、こういうふうにお姉さんとすごしたことは克明に思い出せるはずだった。
 でも、そのときぼくはふと考えたのだけれども、今こうしてお姉さんといっしょにいるということは、お姉さんといっしょにいることを思い出すこととは、ぜんぜんちがうのではないだろうか。お姉さんといっしょに今、このプールサイドにいて、たいへん暑くて、水の音や人の声がうるさくて、……(中略)それらのことをノートに記録した文章をあとから読むことは、ぼくがこれまで考えていたよりも、ずっとちがうのではないかという気がした。たいへんちがうことなのだ。
 そういうふうなことをぼくは思ったのだけれども、その感じをぼくにはうまく記録できない。



この物語において超常現象は、それぞれがばらばらのキーワードとして四方八方から飛んでくるが、終盤に差し掛かるにつれてだんだんとその姿を固めてくる。それを解き明かすためとでもいうように、アオヤマ君の思考は、こり固まった状態からだんだんとはじけていく。そんな反作用的要素が伺える。
また、超常現象とお姉さんの関わりも、だんだんと深まっていく。お姉さんはアオヤマ君に、「私の謎はまだ解けないの?」と微笑みながら急かす。アオヤマ君は、考える。ときには知識など放って、がむしゃらになって。私は、そんなアオヤマ君の背中をいとおしげに見つめざるを得ない。

 

ぼくはたいへん頭が良く、しかも努力をおこたらずに勉強するのである。
だから、将来はきっとえらい人間になるだろう。


物語の冒頭文だ。この子の頭の中は、知ってること、知らないこと、そしてこれから知るであろうことでいっぱいだ。謎がだんだんと解けていくにつれて、私は彼を止めたくなってくる。知らない方が良いこともあるよ、とか。まだ大人だと胸張って言えないような私が、そんなことを言おうとする。子どもは大人になる。大人は子どもになれない。アオヤマ君は、えらい人間になりたい。そのために、今目の前にある謎を解く。その真っ直ぐさは、物語終盤になってもぶれなかった。彼はとうとう、知ることができないことがあることを知る。それでも尚、知れると信じている。だってアオヤマ君の前には、目を疑うような超常現象が起き続けた。それでも彼は、決して目を疑わなかったのだ。結局知ることができたのかどうか、その姿は描かれないのでそれこそ知ることはできない。もうアオヤマ君の背中を見ることができないけれど、私も信じることにした。子どものようにただ純粋に、アオヤマ君を信じたい。

夏がまた終わっていく。アオヤマ君の夏を、アオヤマ君の姿を、映画でもいい、本でもいい。どうか見てほしい。追ってほしい。