任天堂さんが、あまりにも人の考えうる以上の完全なる娯楽を提供してくることに感動して、通勤電車内で動画見ながら涙出てしまった。#任天堂を許すな "@Nintendo: [任天堂HP] Nintendo Switch『Nintendo Labo』の公式サイトを公開しました。https://t.co/HJ7xJ2muJj pic.twitter.com/QN9jjOCNGR"
— しもの田 (@shimodoro222) 2018年1月18日
今朝、通勤電車に揺られながらニンテンドーラボの動画を見て泣いた。涙はマスクをつたって消えていったので、多分周りにはバレてはいないと思う。任天堂を許すなタグをつけたのは言うまでもなくネタです、失礼しました。
そんな、ツイッターでつぶやいたことへのちょっとした補足。
一言でいうのなら、もう、ただただ感情に流されて涙が出たんだけど、それの背景について説明を述べようとしてみる。自分が思ったことでしかないし、特にまとまっているわけでもないし、目新しい話でもないので注意。自分の感情があふれたことについて、ネット上の他の意見を読む前に、語ってみたいのです。
今回任天堂が発表したニンテンドーラボ。技術力がとか、構造がとか、画期的とか、そういうのはもう多分すごく詳しい人たちがいるし、私にはもうただただ「すげー」しか言えないレベルの人間なので閉口する。でも、ただただ「すげー」から泣いたわけであって。
人が生活する上で、一喜一憂するには、小さいことから大きなことまで様々な理由があると思うんですが、例えば私の子どもの頃を思うと、生活の、そして感情の大部分を、結構な割合でゲームがしめていたと思う。ゲーム買ってもらった!と大喜びすることもあれば、何回やってもクリアできない…と自分の能力に落ち込んだりした経験ももしかしたらゲームが最初かもしれない。今思えばなんて単純なんだと少し恥ずかしいところある けれど、でもゲームに限らず、おもちゃってそういう、単純にダイレクトで私たちに作用するものなんだと思う。そして私の場合は、そのままの感じで大人になった。つい最近の年末年始休みでは、起き上がると据え置き機でひたすらゲームをやり、疲れて寝転がるとすかさず携帯ゲーム機を点けるという生活をした。仮想世界さいこ~、と引きこもりすぎてて反省しているところもある。心配性だし不安になりすぎる性質なので、人生いつも幸せであるとは言えないけれど、ゲームをしているときは本当に楽しい。
ただ、大人の中には「ゲームは有害」「もっと外で遊べ」とか言う人も勿論いて、それらの意見全てが間違っているとは思わない。後、大人になるとおもちゃへの興味が薄れる人、なんであんなにハマってたのかなってそもそも忘れてしまう人っていうのが一定数あらわれる。
忘れるのは成長の一環。後、娯楽の転換でもあるのかな。大人になると、逃避する対象が、飲み会であったり、スポーツであったり、現実的な方面によっていくのかなと思う。子どもの頃一緒にゲームを死ぬほどやっていた友人から、「RPGやっててもストーリーに夢中になれなくなった、これが大人になるってやつかな」とかいう声も聞いた。
そこに、ニンテンドーラボという、現実と仮想、そしてデジタルとアナログを全てごっちゃまぜにする竜巻があらわれた。
ニンテンドーラボの発表が「そんな大人たちに対して任天堂さんやってくれたぜ!」と思ったわけではない。また、このニンテンドーラボが万人に受けるものであると思ったというわけでもない。
私は、任天堂が、ただただいつものように、自分たちが目指すべきことややるべきことを追い求めて、それを発表したんだ、という風に感じた。
全ての人の生活が楽しくなるよう、おもちゃを作り続ける。それを実現することに注力して、あまりにもさらっと想像を超えてくるものを発表する様があまりにもかっこよくて、私は泣いたのだと思う。
ヒーローは直接ではなく、間接的に人を救うものなのかもしれない。
楽しんでいる人。不安に思う人。悲しんでいる人。怒っている人。大人。子ども。関係ない。いつでも、誰にでも、現実世界に夢を与えようとしてくれている存在が、こんなに子どもから大人になるまで、身近にあり続けていることに感謝したいと思った。
以上です。
感情の羅列過ぎてこっぱずかしくて後日消すかもしれませんが吐き出しでした。