日々霜

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悔しい視力

即興小説トレーニング

2015/3/25 お題:悔しい視力

制限時間:15分 文字数:852字

「田中くんとのこと」

 これ以上無理だ、と思ってくる頃に、突然「それ」は訪れる。荒んでいた心が落ち着き、もう少し頑張ろう、なんて安心してまたやり続けると、またこれ以上は無理だ、と鬱に陥り、かと思うとまたそれを繰り返して瀬戸際に生きていく。というのがもしかしたら人間的な暮らしというのではないか、と思う。

 世の人々にとってのそれは、家族とか恋人とか趣味とか、なのかもしれないが、両親を早くに亡くし、恋人も五年おらず、無趣味である私にとってのそれ、とは、田中くんのことだ。田中くんは、私の部屋の押入れに無償で住んでいる。人ではないらしい。いや、人なのかもしれない。人という言葉が、生きているものを指すのだとしたら田中くんは人ではないが、人間的な形として分類されるなら田中くんは人である。

 田中くんは前髪が長く、いつもよれた水色っぽいロンTを着て現れる。仕事に疲れ、布団に倒れこみたいのを我慢し、ぼうっと疲労で茹だりそうな脳みそによって私の視界がぼやけているかな、と感じたときが押入れを開けるのに適している。田中くんの顔の細かいところはよく見えない。しかしなんとなく、いつも同じ表情を浮かべているような気がした。田中くんは何も話さないので、私はただただ愚痴をぶつける。田中くんは、ぼやけているが故に、正にオアシスの水のように私を潤した。

 もう無理、の限界点を少し突破し、身体を壊した。ルーチンが崩れたので、仕事をやめて、極めて人間的な暮らし方自体もそこで終わってしまった。しばらく休みなさい、と家族でも恋人でも田中くんでもなく、医者が言ったので、私はあまり実感がなかった。

 数日たって、気づいた。疲れないと、視界がぼやけない。押入れを開けるタイミングがわからなくなってしまった。目を細めてみても、駄目。普段は心底視力のいい私の目を心底悔しいと思うと同時に、田中くんにはもう会えないのだと悟った。

 私はもう疲れないけれど、同時に人間的ではなくなった。ここのところ毎日、田中くんとお揃いの表情を浮かべているような気がしている。

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15分って短いなと強く感じた。

まだまだ続けられそうな感覚だったので残念さがある。