日々霜

本とかゲームとか雑記とか小説とか。好き勝手。

創作意欲について

久々に帰省して、私の小学校~高校時代の落書きノートを読んできた。
読んできたとはいっても、極々一部だ。実家にはとんでもない量のノートがある。


ノートといっても様々な種類があるが、多くはコクヨのキャンパスノートで、100枚入りの分厚いやつ。それを、多分当時は2,3か月で1冊くらいのハイペースで消費していたと思う。大体は落書きの絵、漫画、自作ゲームの構想、日記、テレビへの感想など自由気ままで、今思うに私の創作意欲が最も爆発していた時期だった。

昔の私も今の私も、好きなものがあるということや、さらに言うならば好きなものの種類ですらあまり変わっていない(ゲーム、お笑い、漫画など)というのに、今の私は同じページ数のノートを消費するのに何ヶ月かかるのかわかったもんじゃない。

当時のノートは、そのときにしか埋められなかった。創造性の塊がぶちこまれては踊っている。見た目や妥当性など気にしないし、ただただ書きたいものばかりだ。

 


変わったのは、大学生に入った頃くらいからだろうか。別に明確に変わったわけでなく、だんだんと、自然と。

 

大学生になってから、授業で小説を書くようになった。
プライベートでも、友達と締め切りを決めて書いて、見せ合うようになった。
それまで小説なんてまともに書いたことがなかったんだけど、好きだと言ってくれる人もいて、評価してくれる人もいた。

 

レベルの高い創作をする人たちが周りを囲んだあの頃から、自分の創作物について一定以上の見た目を気にするようになったのかもしれない。

締め切りを設けられて、「書かなくてはいけない」という意識が生まれたのもあの頃が最初だ。

根が怠け者なくせに、やたら見栄っ張りなところもあって、なかなかあの頃は、自分の創作物に慎重になっていたようにも思う。

正直その辺は今も変わってない。でも、それを自覚して、こうやってブログに書くようになっただけまだマシかなと思っている。まだまだ全然よくないけど。一種の自虐ができるくらいには自分を客観視できるようになった。

 

それに、その思いは、帰省してあのノートを見る度に呼び起こされる。もっと自由に書きたいもんを書いてろ、と昔の自分に教えられるので、ちょっと恥ずかしい。
その頃の落書きは、「黒歴史」と称しているけど、やっぱりあの頃の自分は少し誇らしい。

 


そんな昔を一旦置いて、今の私の創作意欲について考えてみると、気づくことがある。
私が最近書いている文章は、大抵の場合怒りか悲しみから生まれている。多分、私が何事にも不満がなく幸せを感じているときは何も生み出さないんだろうな、とまで思っている。


今日のこのブログも、悲しいニュースを見たから、ふとこういうときの心の置き場について考え込んでしまって、つらつら書いている。


これからも私は怒りや悲しみで創作をするのだと思う。やるせなさ、虚無感、嫉妬、そういうマイナスな感情が沸くほど、私は心の置き場を作りたがる。それでも、それが私なりの寄る辺の作り方なのかもしれない。

創作したいときに創作するということは間違っていないはずだから、沸き立つ感情がどうであれ、せめてその衝動だけは、子どもの頃の私から受け継ぎ続けていこうと思う。

 

これはただの予感だけど、どうせ私は生きているうちに、何かを創ることはやめられない。やめたとしたら、それは私にとってひとつの死なのだと思うようにする。
それかはちゃめちゃに幸せになって何も不満がなくなったときだな、多分。

 

などという文章を、見た目を気にしないで書くために読み返しもせず一発書きをしただけのブログでした(言い訳)