日々霜

本とかゲームとか雑記とか小説とか。好き勝手。

小川洋子のことが好きだが、怖い。でも、好きだ。

作家・小川洋子(敬称略)が好きだ。
その「好き」は、手放しではなく、少し、いや非常に面倒くさい種類の「好き」だ、という話をしたい。


小川洋子のことを同じく好きだ、という人が読むと、こいつ、頭おかしくなったかな(もしくは元々おかしいな)、調子乗るんじゃねえ、などと思う箇所があるかもしれませんが、それでもよければ読んでください。

ちょっと長くだらだら書いてしまったので、先に結論をざざっとまとめますが、「私は小川洋子が好きなんだけど、小川洋子があまりにも近くて怖い」という話をします。 

 

衝撃の出会い

初めて読んだ小川洋子の著作は『妊娠カレンダー』だった。
表題作である「妊娠カレンダー」の毒々しさに胸がつっかえていたところを、その次に収録されていた「ドミトリイ」で一気に浸食された。

それまでの読書経験は、多いとか少ないの基準がわからないので具体例だけあげると、中高と太宰治を読みふけり、親の趣味で宮部みゆき村上春樹を読み、その後自分で読み出したのが森見登美彦道尾秀介乙一、などと来ていたところで、女性作家にハマって江國香織よしもとばなな、などなど、「あ~なるほどね」と謎の文学青年に含み笑いで言われそうな道をたどってきた。

その流れで小川洋子に手を出して、埋め尽くされたのは大学生の頃だ。

話が前後するが、「ドミトリィ」には本当にやられた。

 

【ドミトリィ:あらすじ】
「私」は昔住んでいた学生寮(ドミトリィ)を大学に進学するいとこに紹介する。学生寮に住むことになったいとこに、「私」は何度も会いに行くがなぜか会うことができないので、学生寮の管理人である両手片足がない「先生」と話すことになる。そして「私」は、この学生寮で、生徒が行方不明になったままだということを知る……。

 

短いし、機会があれば読んでほしいという思いが強いのでラストについての言及は避けるが、読み終わった後、しばらく硬直するような話だ。

「妊娠カレンダー」のパンチ、「ドミトリィ」のみぞおち、でこの短編集に思い切り負けてしまった私は、その後一気に小川洋子の著作を読みふけることになった。

 

胃もたれした

それまで、読書はジャンルや作家が同じ作品はできるだけ連続しないようにしていた。純文学の後はエンタメ小説とか、ミステリーの後は恋愛小説とか。しかし、『妊娠カレンダー』でやられてしまった私は、狂ったように小川洋子を続けて読み続けた。

 

小川洋子の代表作である『博士の愛した数式』は、「代表作」を穿ってみてしまう捻くれものの私にもぶっ刺さった。シングルになるような曲よりアルバムの端っこにある曲が好きな人間なんだけど、いやでもこれは代表作で間違いなかった。泣いた。即映画も観た。
『完璧な病室』や『薬指の標本』は、友人と読む時期がかぶった。友人は、気持ち悪くて仕方がない、と言っていた。わかる。小川洋子の書く話は、多分間違いなく「気持ち悪い。静か、綺麗、の皮を剥ぐと、不穏、残酷が漂っている。それが好きな要因の一つだった。
『猫を抱いて象と泳ぐ』は、こんな話があるのか、と驚いた。からくり人形を操ってチェスをさす少年。小川洋子の拘り、が詰まっているように感じる物語だった。
『夜明けの縁をさ迷う人々』は私が最も好きな短編集となった。エレベーターで生まれた少年イービーの話。ずっと終わることがない野球の試合の話。産声をあげて死んでいく生物の話。夜明けの縁には現実と虚構の狭間があって、そこをまさに、さ迷っている話だったし、読んだことで私もさ迷った。余談だが、大学の卒業式で好きな本と一緒に写真を撮る機会があって、私はこれを持ちこんだ。

 

そうして私は、大学の卒業論文小川洋子をテーマにして書くことになる。
いくつも読んでいると、小川洋子の小説には、傾向や癖があることは明白だった。論文って何書けばいいの? とちんぷんかんぷんだったので、とりあえずそれを言語化することから始めた。


論文の際に綴った小川洋子の傾向をここで一部羅列する。

・現実と非現実の狭間
・喪失・死の予感
・曖昧
・閉じられた世界
・才能と欠陥を併せ持った登場人物(フリークス)
・存在感の薄い夫
・愛おしい存在としての弟
・奇抜なモチーフ

 

振り返るために綴ったまでで、本題ではないので、この羅列については特に今回説明はしないんだけど、小川洋子好きの人ならきっと、頷けるのではないかと思う。

とにかく、そうして論文に向き合っているうちに、小川洋子作品には小川洋子らしさというのがめちゃくちゃ詰まっていることを完全に認識してしまった。

 

認識してしまった結果、
私は新しい小川洋子の作品に手がすすまず、読めなくなった。

 

なぜか? 説明すると、冒頭で注意書きした「頭がおかしくなった」につながるんだけど、小川洋子が物語内でやりそうなことを想像しながら読むようになってしまって、その仕掛けが出るたびに「ああ…」となんとも言えない感じの反応になってしまうようになった。

小川洋子について卒論を書いていたら、小川洋子と妙な一体化をしてしまったように思えた(何様という感じではあるけど)。それがなんだか気持ち悪くって、しばらく小川洋子に触れるのはやめた。小川洋子胃もたれしたのだった。

 

再会と恐怖

小川洋子から距離を置いて数年たった。
新刊の情報は見ても、そのうち読もう、そのうち…とあまり触れないようにしていたのだが、久々に読みたいな、と思っていた矢先、恐ろしいことが起きる。

 

前提として、私は趣味で小説をちまちま書くことがある。大学時代、そして社会人になっても、趣味としてたまに書いていた。

 

大学時代はというと、無意識のうちにフリークスを書くことが何度かあった。これについては小川洋子に影響をばりばり受けていたというわけではないと思いたいのだけど、自分が書いた中でも特に高い評価を受けた小説2本がまさに先ほど羅列した「才能と欠陥を併せ持った登場人物(フリークス)」「閉じられた世界」などが今思えば多少要素として含まれていたな、と思う。

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そして、2017年11月に私は一本の小説を書いた。

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あらすじを簡単に説明すると、「長男が事故で死んでしまったことがきっかけとなり、第二子である次男を死なせまいと、自分たちの目が届かない場所に行かないように過剰に心配する両親」の話だ。

 

これを書いてから1年後くらいの2018年の年末。

ふと本屋に立ち寄った私は、小川洋子の『琥珀のまたたき』の文庫本が新刊コーナーに置いてあるのをみて、ふと手に取り、裏のあらすじを読んで、目を見開いて、急いで今度は中身をぱらぱらめくった。

 

度肝を抜いた。
驚いたし、怖かった。

 

琥珀のまたたきはどうやら、「3歳になったばかりの末妹を亡くした3人きょうだいの話で、子どもをなくしたショックで母がおかしくなり、2人のきょうだいを別荘に閉じ込め外界との接触を断つ」話のようだった。

 

もちろん、全然違うし、似ていないだろう。
それでも、私の小説と奇妙な一致があった。

 

とりあえず、私は小川洋子の最近の本のあらすじなんて知らなかったのは確かなので、この妙な一致がすごく不思議で、寒気がして、怖かった。

 

番外:生洋子

一度だけ小川洋子を生で見た。

 

卒論を書き終わって、大学を卒業する時期だ。
クラフト・エヴィング商會小川洋子の『注文の多い注文書』が発売されて、その展示会内でトークショーが開催されることになった。

卒論で胃もたれをしていた時期ではあったんだけど、一度、小川洋子を生で見てみたかった。今しかない、と思った。

 

トークショーは抽選制で、応募数は多かったようだが、運よく当選した。
これもまた奇妙な偶然だったのだと思う。

 

そして生で小川洋子(とクラフト・エヴィング商會)を見たのだけど、理由もなく涙が出たのを覚えている。

 

すごく穏やかな雰囲気の女性だった。
やわらかい物腰で、でもしっかりした口ぶりで話していた。
小川洋子は実在した。

 

おわりに

結局怖くてまだ読んでいない『琥珀のまたたき』を読もうかなと最近思い始めて、このブログを書いた。

bookclub.kodansha.co.jp

 

このブログを書いたことで、多少何らかの感情が昇華されたような気がしているからだ。

 

衝撃の出会い。胃もたれした過去。存在への涙。奇妙な一致。
小川洋子が何かをした訳じゃなく、私が勝手に彼女に振り回され続けているだけなのだけど。

今後も私は勝手に距離を置いたり、勝手に近づきすぎたりすることはあるかもしれない。それでも私は小川洋子が好きだし、小川洋子に作用されている。