お笑いが好きで、それでいて一応読書も好きなので、
なんか今の時期過ぎる気もしますが、せっかくなので書こうと思いました。
又吉直樹 『火花』について。
先に言うなら、お笑いが好きだから贔屓目とか、そんなつもりは一切ないです。
むしろ、ピースより前にコンビを組んでいた頃から知っているけど、又吉直樹(またきちやらまったんやら呼び名が入り乱れるのでフルネーム)を物凄く好きだった時期があるというわけではない。変な言い方だけれど、そうなんです。好きだけどハマった時期はなくて、常にそこに居て、常にそこそこ人気があってきゃーきゃー言われてた、という感じ(特にピースはテレビに出て売れる前から人気あったんです。ほんとに)で、私自身所謂女受けがあまりない芸人さんを好きになりがちなので、「ピースは光ってやがるぜ!」と皮肉ったりしていたレベル。
で、実際面白いとは思っていたし、売れたのも納得で、普通にテレビで見るようになってからは、ふーーん、くらいで見てたんだけど、ある日、そういえば、くらいの気持ちで又吉の読書エッセイを買った。まだピースが売れる前に、フリーペーパーで連載していたコラムを収録したもの。
売れる前に出ていたライブやスカパーの番組で、又吉の読書好きは知っていたし、私も太宰を通ってきたもので、
どうしても気になって読んだら、唖然。おもしろくておもしろくて、茫然。
正に読書家・作家としての又吉直樹が、私の芸人好きを乗り越えた瞬間でした。
という前提を経て、『火花』の話。
読む前から文章力に関して信頼はしておりました(としつこく言いたくなるくらいにはエッセイがよかった)
しかし雑誌連載時からの増刷騒ぎで、日が過ぎるごとに上がるハードルにびびってはいたのも事実。
そしていざ読んでみれば、お笑い芸人の話、ということで、しかも又吉直樹を知っていることで、どうしても徳永、が又吉とかぶる部分はあってしまったけれど、それは今や野暮なのだと思う。しかしなかなかどうしても……。そして先輩であり師匠・神谷さんのモデルとして烏龍パーク橋本さんが噂されるし、それでいて私は橋本さんもばっちり知っちゃってるし……とさらに野暮なことになる。だからこそ、この『火花』は、又吉直樹を全く知らない人にこそストレートに伝わるんじゃないかなと思う。私は読者として野暮すぎる。
そんな野暮な私の感想。
お笑い芸人の話ってなかなか読まないし、苦手だろうなと思っていたんだけどそれはあっていたかもしれない。お笑いを文章で読むのはちょっと恥ずかしかった。会話も、面白さをどこに見出したらいいかよくわかんなかったところも正直幾つか。
でもそれを包み込むようにあるのが、後輩徳永と師匠神谷さんのリアルなんだとも思った。リアルってのは、まんま、生活にある、と思う。そして生活って何かと言うと、人によって違うと思うんですが、この二人にとっては間違いなく「面白さ」であると思う。
神谷さんが宣言する「気づいているか、いないかだけで、人間はみんな漫才師である」という突然の超理論も、生活に根差している感覚からくるものなのかなって。
そういうリアル感の中に生きていた人間が、自分以外のリアルや感覚に揺らされて、おぼれたり、もだえたりしながら、それでも自分のリアルを突き詰めようとして。でも、その神谷さんの求める「面白さ」ってのが、神谷さん曰く神谷さん自身が見えない部分にある。見えないことを知っていて、求め続ける。もがく。
徳永と神谷さんは生活の真ん中でぶれないように、とどまっている。でも駒の軸のように、その周りは急速に動き続ける。いつか駒は倒れてしまう予感を持つ。
後半部分はどうにもこうにも切なくなった。あほなことかいてらー、と笑えたらよかったのかもしれないけど、そういう、駒の予感があったから、もう、読んでてこっちが止まりそうになってしまった。
でも最後まで読むと、ああ、やっぱりこの駒はまだまわるんだと思えて安心して、少しほろりときそうになる。そんな終わり方。
と、結局面白かったのかそうでもないのかわからない文章を連ねましたが、私が読み始めたときはすでに芥川賞候補にはあがっていて、読んだ後は、「あ、これ、とっちゃう、かもしれない」と漠然とは思った。
かもしれない、はこれに限らず、この『火花』自体、かもしれない文学なような気がします。
これが人生、かもしれない。