日々霜

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マンボウやしろ告別ショー2013 帽子ヲ風ガ〜何違いな3人〜

マンボウやしろの告別ショー 帽子ヲ風ガ〜何違いな3人〜】

[出演]マンボウやしろ / ロバート・秋山 / はんにゃ・金田 / デッカチャン / 犬の心 / カゲヤマ / ランパンプス / ウリ / 伊藤修子 / 福田転球 / 坂本美雨

13日に行きました。

以下、本当に個人的に思ったことや勝手な解釈垂れ流し。

まず、わざわざ言うことですらないのかもしれないけれど、演者さんが皆それぞれの役を大事にしているのが伝わってきた。役というか、人だった。

特に、転球さんのあの声質とか畳み掛けるようなお喋りとか凄く好きだなあ。後はクイズが好き。便利そうに思えて、実は心の中における攻撃的・活動的成分が生んだ衝動的で厄介なパルプンテなんだなと思った。

ストーリー設定やキャラクターについて。

大雑把にとりあけず表面的ストーリーだけあらすじ。まともなあらすじは他の方にお任せします。

陸・海・空軍の、一郎二郎(次郎?)三郎の三兄弟。父・吉田さんの死を経た三ヶ月後、戦争が始まる。軍でオカマと見なされると戦闘意識を疑われ、戦争に参加することができない。三人とも揃ってオカマ化。戦争がなく、魔法(パルプンテ)が使える世界へ移住。そこで出会った、名誉の帽子をかぶったマリー。しかし風向きが変わり、帽子は何処かへ。何事も、旅は四人と決まっているということで、パーティを組んで帽子探しの旅へ。赤い国で王様が、帽子の情報と凄いパルプンテの代わりに、妻を救って欲しいと頼まれる。黒い国のブラックマーケットで命の電池を買ってくることに。道中、親切なお婆さんに助けられる四人。しかし、そのお婆さんの命の電池は錆び付いていて、老い先が短いと聞いてしまう。電池をお婆さんに渡すか迷いながらも、結局マリーは帽子のためにお婆さんには渡さず。次の日の朝、お婆さんは花になってしまう。赤い国に帰国し、王様に電池を渡そうとするが、期間内には帰ってこれたものの結局間に合わず、妻も亡くなってしまっていた。自責の念に泣き崩れるマリー。そんなとき風向きが代わり、帽子がかえってくる。マリーは考え方を改め、その帽子を街で一番ひもじい生活をしていた者に与える。その者はやはり周りにちやほやされたが、風向きが変わったときに焼き殺されてしまったらしい。三兄弟は、お金を夜の店で稼ぐが、マリーと二郎の結婚と共にそれぞれが別の国へと旅立って行く。二郎とマリーは少しの間幸せな生活を営むが、愛の強さ故にもめてしまい、事故によってマリーは花になってしまう。そして二郎は分かれた兄弟たちと元の世界に帰るため、二人を探す旅に出る。三郎はあっちむいてほいが人間の強さを決める山で修行に明け暮れている。強さを求めるのと同時に、自身の強さを確かめたい気持ちから師匠を倒そうとするが、他の弟子の才能開花によって自分の弱さに気付き、元の世界に帰る決意をする。一方一郎は、赤い国の王様に授かった自身のパルプンテによって自身が触った女性の胸が取れてしまう事件が多発し、何人もに訴えられて自暴自棄になっている。しかし、実は取れた跡から新しい綺麗な胸が生えてくるという良い能力であったことが発覚し、安心。少し前に出て行った息子「ただいま」を連れて元の世界へ帰国。しかし戦争の時に逃亡していた者たち全員の入国は許されない、一人だけ入国可、二人は処刑だと言われる。一郎は、守るべき息子が居るため生きたいと言う。三郎は、特に何も自分には残っていないからと処刑を希望する。二郎は何も言わない。すると、一郎と三郎の能力は国で役立つと認められ、二人が入国、二郎が処刑となる。そして告別。みたいな流れ。それとはまた別に、丸い生き物の寓話があって、それは三兄弟と連動している。

以下、考察というか感想というか。

オカマ化、を戦争からの逃亡以外で捉えようとするならなんなのだろと考えた。二郎は戦争から逃げようとしていたと思ったけど、三郎は意思によるものっぽい。周りに影響されやすいみたいだし。しかし、一郎はなんなんだろう……。始まったのかな。それともあれこそ、風向きなのか。

マリーの死は、切なかった。非現実世界は、魔法があって、本来読めないはずの風向きが目に見えて、人は死んだら花になる。

そんなファンタジーの中での唯一のタブーが、巻き戻すことなのではないかなと、あのシーンを見て思った。二郎がマリーさんを、本来人間を乗せてはいけなかった回転イスに乗せたとき、「戻ればいいんだ、タトゥーをいれる前に」と言ったけど、多分あれって二郎じゃなきゃ出てこない台詞なんじゃないだろうか。

一郎と三郎が、それぞれ始まりと終わりを主張している中で、二郎はその真ん中、途中。中途の存在。

一郎は始まり、というか前を見据えているからこそ、これから先守る物が自然とできたのかもしれないし、三郎は自分を高めるために師匠に勝とうとしてたけど、敗れたから自分の終わりを見据えてた。

真っ先に生きたいと言った丸い生き物も、真っ先に犠牲になると言った丸い生き物も、明確な意思を持っていた。真ん中の、中途半端な存在は何にも寄れない。

一郎も三郎も、それぞれ見方は違えど今を生きていた。二郎だけが、きょろきょろ前や後ろばかりを見渡してたんだと思う。

吉田さんが死んだときも、二郎は特に、過去を振り返ってた印象だ。時間も巻き戻せると思ってたんじゃないかな。それか、巻き戻せたことは巻き戻せたのかもしれないけれど、人生には幾つかの通りがあるはずだから、二郎と出会ったマリーさんは巻き戻したら居なくなってしまうという解釈もありでしょうか。

二郎の末路を見て、モラトリアム思考や夢見がちは、どの世界においてもうまくいかない、と感じて切なかった。現に、二郎のパルプンテは、脇から音楽が流れるというもの。芸術・アートの象徴で、形は美しいけれど使い所がなかった。

一番ツッコミにまわってたのも二郎だし。兄と弟の現実についていけてないってことなんだろうな。不適合者感。

ここまでも勝手ですが、さらに二郎について勝手な解釈。

違和感っていうか、手紙のときの二郎が気になって仕方なくて。

吉田さんの手紙の追追追伸も、一郎の彼女からの手紙のラストも、二郎が読んでいたんだよね。

それで三人とも吉田さんの実の子だったって話も、新しいおっぱいが生えてきたってことも、良い結果になったわけだけど、あれってなんなのかな?あの部分だけ都合良く感じてならなくって、だから私は、結局あれってどっちも、二郎がその場で吐いた嘘なんじゃないかなーって、思ったのでした。

それか、あの部分だけ二郎じゃなくて脚本家としてのやしろさんなんじゃないかな、とか。そう考えると、出て行った「ただいま」もそうじゃないか。老化や若返りを繰り返すのは幻想の代表格っていうか、脚本という媒体にメタフィクション的な脚本家やしろさんが乗っかって、うまく形になって出てきていないからでは。あの脚本の書き加えのような能力こそ、二郎のパルプンテだってことも思える。

しかし、そうやってその場でできたことだと考えると、そもそも一郎にとんでもないパルプンテを与えた王様は、やっぱり妻が死んで多少恨んでたんじゃないのかってことになるから恐ろしいんだけど。

※追記

突き詰め・決めつけ過ぎたような気。人様の色々な感想やらを読んで、手紙を読んだ二郎云々ではなく手紙を書いた人自体が嘘を書いてるパターンもそりゃあった。頭を固め過ぎた。確かに、彼女は置いといても吉田さんは全然ありそう。

最後に、設定やストーリーから見るやしろさん自身について。

やっぱり、重いなああの人。愛の捉え方が特に重い。同一化とか共依存とか。一緒に居るだけじゃ足りなくて、一緒になることが愛。

七つの大陸は、レインボーなんだろうなあとか、黒い大陸のブラックマーケット、とか、あの人の言葉遊びや選びが好きだとつくづく思う。

ポップな世界と、リアルの狭間を書くのが素敵だ。

花の表現が儚いなと思ったのは、あれが死でも愛でもありそうだからだった。死ぬことも、愛することも、感情を揺さぶると言う点や重さでは同じで、それを形にするとどちらもそうなるんじゃないかなって。

捉えきれることなんてないと思うし、全てを見つけようとも思っていないし、本当に何度でも言うように勝手な解釈が詰まっております。しかし、とりあえず思ったことを爆発させたかったのです。やしろさんみたいに。

長々とすみませんでした。