日々霜

本とかゲームとか雑記とか小説とか。好き勝手。

小川洋子のことが好きだが、怖い。でも、好きだ。

作家・小川洋子(敬称略)が好きだ。
その「好き」は、手放しではなく、少し、いや非常に面倒くさい種類の「好き」だ、という話をしたい。


小川洋子のことを同じく好きだ、という人が読むと、こいつ、頭おかしくなったかな(もしくは元々おかしいな)、調子乗るんじゃねえ、などと思う箇所があるかもしれませんが、それでもよければ読んでください。

ちょっと長くだらだら書いてしまったので、先に結論をざざっとまとめますが、「私は小川洋子が好きなんだけど、小川洋子があまりにも近くて怖い」という話をします。 

 

衝撃の出会い

初めて読んだ小川洋子の著作は『妊娠カレンダー』だった。
表題作である「妊娠カレンダー」の毒々しさに胸がつっかえていたところを、その次に収録されていた「ドミトリイ」で一気に浸食された。

それまでの読書経験は、多いとか少ないの基準がわからないので具体例だけあげると、中高と太宰治を読みふけり、親の趣味で宮部みゆき村上春樹を読み、その後自分で読み出したのが森見登美彦道尾秀介乙一、などと来ていたところで、女性作家にハマって江國香織よしもとばなな、などなど、「あ~なるほどね」と謎の文学青年に含み笑いで言われそうな道をたどってきた。

その流れで小川洋子に手を出して、埋め尽くされたのは大学生の頃だ。

話が前後するが、「ドミトリィ」には本当にやられた。

 

【ドミトリィ:あらすじ】
「私」は昔住んでいた学生寮(ドミトリィ)を大学に進学するいとこに紹介する。学生寮に住むことになったいとこに、「私」は何度も会いに行くがなぜか会うことができないので、学生寮の管理人である両手片足がない「先生」と話すことになる。そして「私」は、この学生寮で、生徒が行方不明になったままだということを知る……。

 

短いし、機会があれば読んでほしいという思いが強いのでラストについての言及は避けるが、読み終わった後、しばらく硬直するような話だ。

「妊娠カレンダー」のパンチ、「ドミトリィ」のみぞおち、でこの短編集に思い切り負けてしまった私は、その後一気に小川洋子の著作を読みふけることになった。

 

胃もたれした

それまで、読書はジャンルや作家が同じ作品はできるだけ連続しないようにしていた。純文学の後はエンタメ小説とか、ミステリーの後は恋愛小説とか。しかし、『妊娠カレンダー』でやられてしまった私は、狂ったように小川洋子を続けて読み続けた。

 

小川洋子の代表作である『博士の愛した数式』は、「代表作」を穿ってみてしまう捻くれものの私にもぶっ刺さった。シングルになるような曲よりアルバムの端っこにある曲が好きな人間なんだけど、いやでもこれは代表作で間違いなかった。泣いた。即映画も観た。
『完璧な病室』や『薬指の標本』は、友人と読む時期がかぶった。友人は、気持ち悪くて仕方がない、と言っていた。わかる。小川洋子の書く話は、多分間違いなく「気持ち悪い。静か、綺麗、の皮を剥ぐと、不穏、残酷が漂っている。それが好きな要因の一つだった。
『猫を抱いて象と泳ぐ』は、こんな話があるのか、と驚いた。からくり人形を操ってチェスをさす少年。小川洋子の拘り、が詰まっているように感じる物語だった。
『夜明けの縁をさ迷う人々』は私が最も好きな短編集となった。エレベーターで生まれた少年イービーの話。ずっと終わることがない野球の試合の話。産声をあげて死んでいく生物の話。夜明けの縁には現実と虚構の狭間があって、そこをまさに、さ迷っている話だったし、読んだことで私もさ迷った。余談だが、大学の卒業式で好きな本と一緒に写真を撮る機会があって、私はこれを持ちこんだ。

 

そうして私は、大学の卒業論文小川洋子をテーマにして書くことになる。
いくつも読んでいると、小川洋子の小説には、傾向や癖があることは明白だった。論文って何書けばいいの? とちんぷんかんぷんだったので、とりあえずそれを言語化することから始めた。


論文の際に綴った小川洋子の傾向をここで一部羅列する。

・現実と非現実の狭間
・喪失・死の予感
・曖昧
・閉じられた世界
・才能と欠陥を併せ持った登場人物(フリークス)
・存在感の薄い夫
・愛おしい存在としての弟
・奇抜なモチーフ

 

振り返るために綴ったまでで、本題ではないので、この羅列については特に今回説明はしないんだけど、小川洋子好きの人ならきっと、頷けるのではないかと思う。

とにかく、そうして論文に向き合っているうちに、小川洋子作品には小川洋子らしさというのがめちゃくちゃ詰まっていることを完全に認識してしまった。

 

認識してしまった結果、
私は新しい小川洋子の作品に手がすすまず、読めなくなった。

 

なぜか? 説明すると、冒頭で注意書きした「頭がおかしくなった」につながるんだけど、小川洋子が物語内でやりそうなことを想像しながら読むようになってしまって、その仕掛けが出るたびに「ああ…」となんとも言えない感じの反応になってしまうようになった。

小川洋子について卒論を書いていたら、小川洋子と妙な一体化をしてしまったように思えた(何様という感じではあるけど)。それがなんだか気持ち悪くって、しばらく小川洋子に触れるのはやめた。小川洋子胃もたれしたのだった。

 

再会と恐怖

小川洋子から距離を置いて数年たった。
新刊の情報は見ても、そのうち読もう、そのうち…とあまり触れないようにしていたのだが、久々に読みたいな、と思っていた矢先、恐ろしいことが起きる。

 

前提として、私は趣味で小説をちまちま書くことがある。大学時代、そして社会人になっても、趣味としてたまに書いていた。

 

大学時代はというと、無意識のうちにフリークスを書くことが何度かあった。これについては小川洋子に影響をばりばり受けていたというわけではないと思いたいのだけど、自分が書いた中でも特に高い評価を受けた小説2本がまさに先ほど羅列した「才能と欠陥を併せ持った登場人物(フリークス)」「閉じられた世界」などが今思えば多少要素として含まれていたな、と思う。

note.mu

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そして、2017年11月に私は一本の小説を書いた。

note.mu

 

あらすじを簡単に説明すると、「長男が事故で死んでしまったことがきっかけとなり、第二子である次男を死なせまいと、自分たちの目が届かない場所に行かないように過剰に心配する両親」の話だ。

 

これを書いてから1年後くらいの2018年の年末。

ふと本屋に立ち寄った私は、小川洋子の『琥珀のまたたき』の文庫本が新刊コーナーに置いてあるのをみて、ふと手に取り、裏のあらすじを読んで、目を見開いて、急いで今度は中身をぱらぱらめくった。

 

度肝を抜いた。
驚いたし、怖かった。

 

琥珀のまたたきはどうやら、「3歳になったばかりの末妹を亡くした3人きょうだいの話で、子どもをなくしたショックで母がおかしくなり、2人のきょうだいを別荘に閉じ込め外界との接触を断つ」話のようだった。

 

もちろん、全然違うし、似ていないだろう。
それでも、私の小説と奇妙な一致があった。

 

とりあえず、私は小川洋子の最近の本のあらすじなんて知らなかったのは確かなので、この妙な一致がすごく不思議で、寒気がして、怖かった。

 

番外:生洋子

一度だけ小川洋子を生で見た。

 

卒論を書き終わって、大学を卒業する時期だ。
クラフト・エヴィング商會小川洋子の『注文の多い注文書』が発売されて、その展示会内でトークショーが開催されることになった。

卒論で胃もたれをしていた時期ではあったんだけど、一度、小川洋子を生で見てみたかった。今しかない、と思った。

 

トークショーは抽選制で、応募数は多かったようだが、運よく当選した。
これもまた奇妙な偶然だったのだと思う。

 

そして生で小川洋子(とクラフト・エヴィング商會)を見たのだけど、理由もなく涙が出たのを覚えている。

 

すごく穏やかな雰囲気の女性だった。
やわらかい物腰で、でもしっかりした口ぶりで話していた。
小川洋子は実在した。

 

おわりに

結局怖くてまだ読んでいない『琥珀のまたたき』を読もうかなと最近思い始めて、このブログを書いた。

bookclub.kodansha.co.jp

 

このブログを書いたことで、多少何らかの感情が昇華されたような気がしているからだ。

 

衝撃の出会い。胃もたれした過去。存在への涙。奇妙な一致。
小川洋子が何かをした訳じゃなく、私が勝手に彼女に振り回され続けているだけなのだけど。

今後も私は勝手に距離を置いたり、勝手に近づきすぎたりすることはあるかもしれない。それでも私は小川洋子が好きだし、小川洋子に作用されている。

【本】村谷由香里『ふしぎ荘で夕食を ~幽霊、ときどき、カレーライス~』

www.kadokawa.co.jp

 

共通のフォロワーさんからの縁で知り合うこととなった、ゆかりさんの受賞デビュー作。距離が近いというのもおこがましいですが、ネット上で知っている方ということで、普段の読書とはまた異なった感覚で読んでいました。

というのも、そもそもの凄く正直な話、多分ゆかりさんが作者でなかったら、私はこの本を読む機会すら最初に与えられなかったと思うのです。それは普段自分が本屋さんで手に取るジャンルの本ではないからという至極単純な理由なのですが、「あるべき機会や偶然や運命があってこの本を読むことができている」ということをしみじみ考えながら読んでいました。というなげえ前置きはこれくらいに。


物語の舞台はオンボロで幽霊が出るという噂のある深山荘。そこで暮らす住人たちの、ちょっと不思議で、ちょっとホラーで、でも読み終えてしまうと全てがやさしくて、やわらかいお話。
「大学生」と「食事」の比重が大きい、と感じました。
おいしいご飯を誰かと一緒に食べること。日常が楽しく、平和であること。そしてそれが、「いつまでも終わらない」ではなく、「いつか終わる」ということ。人間が生きている上で、生活している中で、ときに何かが生まれ、ときに何かを失う。それは当然のことなんだけど、なかなか普段は意識できないことがある。特に、平和な日常においては。
災害や身近な人の死など、ときには悲しくてどうしようもないことを経て、あらためて考え込んで、「終わらない」ことなどないと知る。それが人間なのだと思います。

 

大学生って、上記の「いつまでも終わってほしくない日常がいつか終わってしまう」ことについてもっとも考える時期なんじゃないかなと思う。
子どもと大人の中間地点。子どもよりは頭が少しよくて、でもまだまだ未熟で、いつまでも友達と遊んでいたいなと思って、でも将来どうなるかなという不安もあって。
この物語は、そんな大学生たちが、日常の中にある小さくて切ないファンタジーに触れることで、考える、前に進む話なんだなあと感じながら読んでいました。

本当にすごくさりげない物語。いきいきとした登場人物たちが楽しそうにたわむれて、おいしそうなご飯を食べる。そのさりげない幸せや、その後の変化への予感も含めて、まるっとやさしい、お話だなと思います。

 

最後になりますが、私はゆかりさんの文章は本当に読みやすくて綺麗だなと、思っています。いきなりなんだ、という感じで、それもベタな褒め言葉すぎて恥ずかしいのですが、でもそれが本当にそうで、読み進めていて不快でない、手が止まることがない、というのは本を読む上で、大切なことだなとあらためて実感しました。物語も文章も、静かにさりげなく、読者に寄り添ってくれる本です。


なんか感想以外の部分が長くなり、失礼しました。
読むことができてよかったです。私が手に取ることになったゆかりさんの縁を、他にもつなぐことができたら…と思ってここに残します。是非とも皆さんも読んでみてください。

 

創作意欲について

久々に帰省して、私の小学校~高校時代の落書きノートを読んできた。
読んできたとはいっても、極々一部だ。実家にはとんでもない量のノートがある。


ノートといっても様々な種類があるが、多くはコクヨのキャンパスノートで、100枚入りの分厚いやつ。それを、多分当時は2,3か月で1冊くらいのハイペースで消費していたと思う。大体は落書きの絵、漫画、自作ゲームの構想、日記、テレビへの感想など自由気ままで、今思うに私の創作意欲が最も爆発していた時期だった。

昔の私も今の私も、好きなものがあるということや、さらに言うならば好きなものの種類ですらあまり変わっていない(ゲーム、お笑い、漫画など)というのに、今の私は同じページ数のノートを消費するのに何ヶ月かかるのかわかったもんじゃない。

当時のノートは、そのときにしか埋められなかった。創造性の塊がぶちこまれては踊っている。見た目や妥当性など気にしないし、ただただ書きたいものばかりだ。

 


変わったのは、大学生に入った頃くらいからだろうか。別に明確に変わったわけでなく、だんだんと、自然と。

 

大学生になってから、授業で小説を書くようになった。
プライベートでも、友達と締め切りを決めて書いて、見せ合うようになった。
それまで小説なんてまともに書いたことがなかったんだけど、好きだと言ってくれる人もいて、評価してくれる人もいた。

 

レベルの高い創作をする人たちが周りを囲んだあの頃から、自分の創作物について一定以上の見た目を気にするようになったのかもしれない。

締め切りを設けられて、「書かなくてはいけない」という意識が生まれたのもあの頃が最初だ。

根が怠け者なくせに、やたら見栄っ張りなところもあって、なかなかあの頃は、自分の創作物に慎重になっていたようにも思う。

正直その辺は今も変わってない。でも、それを自覚して、こうやってブログに書くようになっただけまだマシかなと思っている。まだまだ全然よくないけど。一種の自虐ができるくらいには自分を客観視できるようになった。

 

それに、その思いは、帰省してあのノートを見る度に呼び起こされる。もっと自由に書きたいもんを書いてろ、と昔の自分に教えられるので、ちょっと恥ずかしい。
その頃の落書きは、「黒歴史」と称しているけど、やっぱりあの頃の自分は少し誇らしい。

 


そんな昔を一旦置いて、今の私の創作意欲について考えてみると、気づくことがある。
私が最近書いている文章は、大抵の場合怒りか悲しみから生まれている。多分、私が何事にも不満がなく幸せを感じているときは何も生み出さないんだろうな、とまで思っている。


今日のこのブログも、悲しいニュースを見たから、ふとこういうときの心の置き場について考え込んでしまって、つらつら書いている。


これからも私は怒りや悲しみで創作をするのだと思う。やるせなさ、虚無感、嫉妬、そういうマイナスな感情が沸くほど、私は心の置き場を作りたがる。それでも、それが私なりの寄る辺の作り方なのかもしれない。

創作したいときに創作するということは間違っていないはずだから、沸き立つ感情がどうであれ、せめてその衝動だけは、子どもの頃の私から受け継ぎ続けていこうと思う。

 

これはただの予感だけど、どうせ私は生きているうちに、何かを創ることはやめられない。やめたとしたら、それは私にとってひとつの死なのだと思うようにする。
それかはちゃめちゃに幸せになって何も不満がなくなったときだな、多分。

 

などという文章を、見た目を気にしないで書くために読み返しもせず一発書きをしただけのブログでした(言い訳)

おすすめしたいかしたくないか微妙なものをおすすめする  

人に何かをおすすめするのが苦手です。
どうしても私の好きなものというのは私の主観でみて好きなものだし、
どこかしらに盲目的な部分があって好きなんだと思っているところがあるからです。
私は私の好きなものを手放しで褒めるときはよくありますが、いつ横から「は?それクソじゃん!」とそれこそ主観ツッコミ(暴力)がとんでくるんじゃないかと勝手に考えてしまうこともあります。趣味嗜好はその人の勝手なんだけど、ぶつけてくる人がいるから生きづらい世の中です。

そんなこと考えていたら、世の中には、「おすすめしたいけどかなり問題がある」という、やたら客観的に見れて、おすすめしたいかしたくないか微妙なものっていうのがあるよなということに思い当たったので、3つ例をあげて書いてみようかなと思います。

 

将太の寿司

今回お伝えしたい「おすすめしたいけどかなり問題がある」というもので一番わかりやすい例なんじゃないかなと思ったので最初に持ってきました。
私自身、色んな人に将太の寿司の話をしすぎて、あらためて何を説明したらいいかわかりません。簡単に言うと寿司が世界の中心でまわっている感じの漫画です。寿司で人は生き、寿司で人は死にます。

いきなり表題と真逆のことを言いますが、おすすめはしたくありません。
おすすめしたいのではなく、これからも定期的に色んな人に感染していってほしい、
そんな作品なんです。私もかくいう最近感染したばかりの一人です。

誰かが将太の寿司の話をする⇒周りの将太の寿司を知っている人たちが盛り上がる⇒知らない人も気になって読む⇒誰かに将太の寿司の話をしたくなる のループを繰り返して欲しいんです。

ちなみに私が将太の寿司の話をするイベント(ちょっと違うけど)に行ったときは、みんなでめちゃくちゃ楽しそうに将太の寿司につっこみ、盛り上がりました。
そういう魅力があるんですけど、だからといって大真面目におすすめしたいかと聞かれるとめっちゃ首をかしげる、そんな漫画です。

前に呟いたことがあるんですが、こんなイメージです。

 

 

こういう、B級映画をわーわーツッコみながら楽しむ感じ、です。
おかしいところがいっぱいある、しかし魅力があって読み続けるのをやめられないし、記憶にもすごく残る。
私は、将太の寿司無印のツッコミ不在の大きな天然ボケが連発されるのに対して、将太の寿司2で作者が意識してボケているシーンで物足りなさを感じてあまり楽しめなかったというところまでいって、やっと「あ、私は寿司にとりつかれている」と気づきました。

ということで今回お伝えしたいのはそういうものについてです。寿司は自明すぎるので、次にいきましょう。

 

glee

海外ドラマ部門からgleeの登場です。

海外ドラマって、人気に比例してシーズンがやたら延びますよね。
そしてシーズン1は面白いのに、最終的に収集付かなくなって尻すぼみ、みたいなパターンも多いんじゃないかと思います(LOSTとか…)

このgleeも、シーズン6まで続いた人気ドラマです。
高校が舞台で、周囲から「負け犬」扱いされる、所謂スクールカーストの下位に属する変わり者たちが集まって設立された新生グリークラブが、周りからの嫌がらせに耐えながらも実力をつけていき州大会に挑戦する、仲間たちとの絆や成長を描いた青春ストーリーです。

・なぜおすすめしたいかしたくないか微妙なものなのか?

glee、「面白い」かと聞かれると、「面白い」んですよ。
たださっきなんでシーズンの話をしたかというと、gleeは、例えばウォーキングデッドとかと違って、単純にストーリーが面白いから人気が出てシーズンが続いた、とは思えないドラマだからなんですよね。

ストーリーは「面白い」というよりは「アホ」なんです。勢い。130km/h。
もうツッコミが追いつかないというか、「は?なんでだよ」と思ってしまう人は多いんじゃないかな。しかもそれは、将太の寿司とは違う「なんでだよ」なんでよね。だから、人によっては「付き合ってられない」とやめてしまう人もいると思っています(尚、将太については途中でやめられないと思い込んでいる)

多分一番おすすめできない理由は、恋愛関係のぐちゃぐちゃ感
海外ドラマってそもそも恋愛関係適当なの多くない? というのはあると思いますが、gleeはすごいよ。別れて付き合って付き合って別れて、付き合ってないけど妊娠して。部活動に恋愛関係持ち込んでトラブル起こしたり、逆に、あんなに色々あったのに怖いほど何もなかったように部活動で青春したりする。それで感動!なんて言うから、視聴者は置いてけぼりにされてる感すごいあります。

そういった理由で、やめてしまう人も多くいるとは思う。それでもなぜ私が許せたのかというと、「ミュージカル」ドラマだから。
ミュージカルってずるくないですか。ストーリー無視しても、「音楽がいい」「パフォーマンスがいい」というだけで許せてしまう。
昨年の映画グレイテストショーマンとかも、話が良かったかと聞かれると「うーん?」なんだけど音楽がめちゃくちゃいいので未だに毎日曲を口ずさんでしまいます。
gleeもそれ。すごく単純なんだけど、音楽にもキャストにも魅力がある。
キャストはオーディション勝ち残っている人たちというのもあり、単純に歌がうまい。
表現力も流石という感じ。そしてまあまたこれ単純にルックスがいい。こんだけ美男美女なので、恋愛関係ぐちゃぐちゃでもまあいっか? とすら思ってしまう。

後これはおすすめしない理由ではなく、単純に補足情報として。
メタ的な話ではあるんですが、学生役を演じた若いキャスト陣のが数名亡くなっています。悲しい。なんでだよ……。さらには追悼エピソードなんかもあるため、ドラマを楽しみながらも、現実と混じり合い「この後亡くなったんだよね…」などと考えてしまい辛くなる可能性があります。ただ悲しくなるのも、キャストが魅力的でいきいきとしているからこそです。

 

蒙古タンメン中本(カップ麺)に納豆

いきなりカテゴリが違いすぎてすみません。

マツコの知らない世界で紹介されていた、セブンの蒙古タンメン中本のカップ麺に納豆を投入して食べるやつです。

端的にいきましょう。これめちゃくちゃおいしい。
蒙古タンメンカップ麺がそもそもめちゃくちゃおいしいのに、納豆が入ることによってそのおいしさをマイルドに爆発させやがります。

・なぜおすすめしたいかしたくないか微妙なものなのか?

これまた端的に。普段、私はカップ麺を頻繁に食べないように意識しているつもりです。実際、年齢の所為もあると思いますが、カップ麺を食べて気持ち悪くなってその日後悔する…なんてこともしばしばあります。そのくらいジャンキーなものであることはわかっているんです。
そんな毎食食べていいものじゃないのに、納豆が入っていることによって「あれ?健康的では???」っていう魔法がかかってしまうからです。
中毒になります、という意味です。

 

以上になります。いや3個かよ、そして文章量の差よって思うんですけど、おすすめしたいかしたくないか微妙なものについて考えていたらやたら体力を使いました。ただ他にも色々あるので、今後シリーズ化するか否かはわからない。

「おすすめしたいかしたくないか微妙」と思うこの私の感情も、当然主観的であるため、私がおすすめしない理由にあげている部分を「そこがいいんじゃないか!」と言う方もいると思います。とりあえず恐い物見たさでも、単純に気になったからでもいいので、よかったら…と結局おすすめして終わります。

五感をマルチに使いたい話

 

通勤電車の中での行動に、よく迷う。
音楽を聞く、動画を見る、本を読む、妄想する。
とか、よくやる行動としてはそのくらいかなと思うんだけど、
自分の性格上、このうち一つ、というのができない。

音楽を聴くと、聴覚が満たされる。サカナクションを流せば、山口一郎が耳元で歌ってくれる。
でも、視界は満たされない。自分を含め、人が箱詰めされてる光景は変わらないし、人のあらゆる行動がやたら目について落ち着かないこともしばしば。

だから、音楽を流しながらスマホをいじる、もしくは本を読む。または視覚と聴覚どちらも一気に支配してもらうために動画を見るというのもある。動画の内容が映画やドラマだとなかなか映像に注視しなくてはいけないので難しいけど、ゲーム実況動画とかだと、バックグラウンドで流してスマホや本を~というのもある。とにかく、視覚・聴覚片方だけが解き放たれているような図は落ち着かない。

ちょっとイレギュラーな例だと、最近あんまりやっていないけど、創作熱が高まっているときはむしろイヤホンを取っ払い、ただ本を読むだけってときがある。でも正確にはただ本を読むだけでなく、電車内の会話を聞いて、そこでしか聞くことのできない物語みたいなのを楽しんでいる。

そんな風に、楽しむための五感はせかせかマルチに働かせないと気が済まないんだけど、一方、働かせないように意識しているのが、嗅覚。
だって電車基本的にくっさいんだもん。以上。それ以上も以下もない。ただ、たま~に昔知り合った誰かを思い出すにおいの人とかいて、それはそれでなんか感慨深い、切ない気持ちになる。私の五感の中では多分嗅覚が一番秀でているのでそういうことが起きる。でも基本的に世界は不快なにおいの方が多いから嫌なことの方が多い。皆控えめなバニラビーンズになればいいのに。


続けて、家の場合。
マルチ五感癖は、電車のみに限らない。

私の趣味。ゲーム。映画。ゲーム実況動画。お笑い。音楽。ネットサーフィン。読書。創作(絵やら文章やら)
これらを、それぞれやればいいのに、ついついマルチにやりたがりやがる。いや~~きっつい。
でもぜーんぶやりたいという気持ちはあるので、なんで私は一人しかいないんだろう、が最近の悩みです。

特に鬼門なのが映画です。
映画館とか、「はい!映画観よう!」と思っていれば集中して見れるのに、家だとほんとだめ。何かやろうとしてしまう。とはいっても、ゲームやりながら映画は見れないし、音楽は映画の中に入ってる。
立ち上がらず映画を観るという行為。映画、好きなのに、なんでこんなに家だと何かやりたくなってしまうんだろう。
映画を黙って観る時間がもったいない、とは思わないんだけど、めちゃくちゃ観たい映画とかじゃなくて、気になっている映画~くらいだと途中で落ち着かなくなってしまうことがしばしばある。逆に言えば、マルチタスクなどしたくもならないような映画が来ると、自分にとってアタリなんだなってこともわかるんですけどね。

結局この感覚ってなんで生まれるかっていうと、
朝仕事に行って、夜仕事から帰ってくるってのを週に5回繰り返していたら、
何より、自分の貴重な自由時間を何に使うかってことを考えてしまう。
そうして、どうやって短い時間で五感をいかに有効に使うか?ということに帰結するんだと思います。

手元ではゲームやりながらも動画を横で垂れ流し、ご飯もつまみつつ、さらには人と話し、ちょくちょくスマホツイッターいじる…なんてこともよくあるので、

マジでマイペースをアイデンティティにしすぎているな、とあらためて思う。

マルチじゃないのは眠いときと疲れ果てているときくらいです。


そんな自分に呆れると同時に、生きてるなーってちょっと嬉しくなることもあるんだけど、ただ結論としては人生において自由な時間がないのが悪いので、
とっととたっぷりのお金とたっぷりの時間をください。以上です。

2018年11月24日 はボちんの将太の寿司配信メモ

2018/11/24 はボちんの将太の寿司配信の自分用メモです。本当にただの自分用です。思い出したい人は読んでください。

将太の寿司全巻記念にUP。

 

 

 

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開幕うむコメ

 


「うむ」「あ…」の流れ

「あ…」のコマだけで300はある

はるしげ「イボーン、『あ』はすごいんだよ」

 


レベルの低い話からしましょう

 


ふつうに話してたら将太の寿司の話になり、盛り上がったので配信を始めた

 


将太の寿司ガチ勢はるしげ、東京大会まで読んだたろちん、初心者イボーン

 


イボーンはシンコ 

イボーン「シンコ…?」

クソザコ寿司見習い

チンコ?シンコ?

たろちん「シンコです。でもチンコみたいなやつなんです」

 


後輩の将太には追い抜かれ、任された仕事もできないシンコはドカタになる

はるしげ「工事現場で成長してるから」イボーン「なんで寿司屋で成長しないやつが工事現場で成長してんすか」

 


セメントの話

シンコ「そうか、寿司も一緒なんだ」

イボーンちゃんつまずいちゃう

シンコは工事現場を極めてたら今頃親方だったのでは

 


あの世界は寿司が大事

寿司で何人の命が救われてるか→寿司に関わってるやつ何人も死んでもいますよ

 


親が死んでるか犯罪も厭わない悪人か買い占める財力がある人しか寿司職人になれない

カイジの話?」

 


他の寿司屋さんが困るんじゃ…?→コンクール以外の寿司屋はあの世界にない

 


応援してる人たち→ジャンバー着たおっさん

イボーン「そこはリアリティありますね…あっ毒されてる俺」

 


「そろそろ『あ』の話する?」「『あ』の話ってなんだよ」

 


将太の寿司のツッコミ段階はいっぱいある。重箱の隅をつつく前にまずストーリーがおかしいという話から責めたほうがいい

 


他の審査員無視して柏手の有無で決まる勝敗

本人も自覚あり(自重しなければ…)しかし後半は審査委員長の手を見る大会になる

 


笹寿司にやられて寿司が握れなくなったお父さんの話をしながら、寿司が握れなくなったというワードにツボってしまうはるしげさん

 


北海道に響き渡る柏手

「何がいい話なんですかはるしげさん」

 


柏手は兵器

 


大会スケジュールが基本ガバガバ

すぐ同率一位でプレーオフしたがる

 


マグロ哲の話

イボ氏メモ開始

たろちん「アナゴ名人のおじいさんがいるんですけど」イボ「ちょっと待ってちょっと待って」

 


アナゴ名人がマグロ哲に500万円渡したのが意味わからん、とヒートアップするたろちんにイボーン「いや、それはさあ…あれ、なんで俺将太の寿司側になってんの」

 


大会の運営ほんとガバガバ

 


将太は1回戦で奥万倉さんに負けてるけど2位でもいいかということでそのまま通過している→イボーン「蓮舫みたいですね」

 


イボーン「おく、まぐら、さん?」

はるしげ「…奥万倉さんに引っかかりがあるんだったら奥万倉さんの魅力を語っていくけど?」イボーン「謎の脅し文句」

 


寿司の地位が高い

寿司に関わった人は大抵親を亡くすなどの境遇がある。

思い出になったり、悪い心が芽生えたりするのは全て寿司きっかけ 寿司に感情が吸収される

 


将太は寝ない

寝たら頑張ってない

たろちん「将太はとにかく寝ないからえらいの!」

 


はるしげ「安心してくれ、将太が寝てる回もある」

熱で倒れたとき、起きて薬を飲みながら寿司のアイディアを思いつく→イボーン「寝たほうがいいんじゃ」

砂風呂に強制的に連れていかれ、強制的に寝かせられることで寿司のアイディアを思いつく→イボーン「寝ろよ!!!」

寝なかったことでパフォーマンスが落ちる描写もあるが、新人寿司コンクールではパフォーマンスは落ちない

イボーン「お客さんに失礼だろ、てめえの名誉のためにすげえパフォーマンス出すんだな」

 


佐治先輩の話

将太に彼女から届いた手紙を全部捨てちゃうでお馴染み→イボーン「将太はその店辞めた方がいいんじゃないか」

佐治の名前は安人。さじあんとでサージェントと呼ばれているというあだ名が一度だけ登場するが店のメンバーからは「ヤス」と呼ばれる。作中でも本名が「あんと」「やすと」とブレる。

編集が仕事してない

 


将太の寿司の敵は人道から外れたことをしないと気がおさまらない

 


イボーン「おくまぐらってどういう字書くの」たろちん「エネマグラみたいな字です」

 


新人寿司コンクールの代表になるための対決で将太に負けて鳳寿司を去った佐治、京都代表として出場してる→イボーン「どの面下げて…」

 


佐治が京都代表になったぜと来たところで、これ全国大会なの!?と初めて気付く

 


ヒントを持ってくるが、説明はしない佐治さん→たろちん「鳳寿司は目で盗め、だから」イボーン「いやおめえ辞めたろ」

 


最終的に絶対味覚を手に入れる佐治

佐治「二粒、いや、塩が三粒です」和尚「ようでけたのう」

はるしげ「お前たち絶対味覚のすごさをわかってないよ。佐治の前に絶対味覚を得たおじいさんは絶対味覚の代わりに視力を失っているんだよ」

イボーン「なぜ味覚を研ぎ澄まして視覚を失ってるんだ」

 


はるしげ「将太の寿司の怖いところは…」イボーン「今のところずっと怖いけど」

 


ヒューマンドラマを目指しているけど作者の天然故に悪役のとんでもなさが目立って怖い

あじしるのまゆってのが出てくる」→一個もわかんない

 


寿司の修行2年くらいしかやってない元ボクサーが決勝に出てくる

 


はるしげ「後二重人格の…」たろちん「俺二重人格のやつの寿司屋に行きたくないもん」イボーン「それを言ったら全員嫌だよ」

 


はるしげ「腐った牡蠣をじじいの口に押し付けるってのがあって」イボーン「レギュラーのネタみたい」

イボーン「え、それは趣味でやったの?」

 


将太の親父は笹寿司に寿司を握れなくされたけどたまに握れる

 


もうとんでもない実力を持ってるから巴寿司に帰ってもう後を継げるレベルなのに、全国大会に勝てないと一人前の職人とは認められない将太世界

 


たろちん「俺だっておかしなこと言ってるのはわかってるけど、だって将太がそう言うんだもん」

 


寿司屋の漁船を転覆させたのは寿司屋

寿司屋と工事現場と漁船と暴走族しか選択肢がない将太の寿司世界

お医者さんは一応いる

 


トビオのたばこ飯事件

お母さんがトビオのたばこを辞めさせためにたばこを混ぜたご飯を出す(発想が頭おかしい)

あなたが食べないなら私が食べます!(たばこ飯を百歩譲ってわかったとしてもこっちは絶対わからん)

たろちん「もし奥さんがやってきたらタバコ辞めますか?」イボーン「いや、別れる」別れるしタバコもやめる、トラウマもの

 


フィジカル最強大年寺さん

電車に轢かれるも、血流を意識して復活

伝説の寿司職人なのに新人寿司コンクールに出ちゃう大年寺さん

 


はるしげ「だんだんインフレするから」イボーン「今んところインフレの方向が寿司じゃない」

だんだんみんな自分で釣って来なきゃいけなくなる&レアな魚がレアであるほど強くなる

 


目利きのインフレ

百目の辰、築地以外無能

 


どんなにインフレしても鳳寿司の親方が握る寿司が一番うまい

 


ゴミ箱のシャリ食べてシャリの味を覚える将太

たろちん「そのシャリの味が正しいシャリの味なのかもわからないし」

 


武藤初登場時、将太の寿司をうまいうまいと食べるも、将太が助平心でお茶をいつもと違う玉露を出したところ「馬脚を現しおったな!!」

たろちん「いやそれまで全部うまいって言ってたじゃん、総合的には良いじゃん」

はるしげ「お茶も含めて寿司なんだよ」

 


佐治さんハモレントゲン事件

話より絵力が強い

 


一貫して将太の寿司側のはるしげさん

 


みんなでお寿司食べに行こう

イボーン「俺あんたらともう寿司食えねえよ、笑っちゃうもん」

たろちん「読んでるとどうしてもお寿司食べたくなる」

はるしげ「味の薄いものから食べたくなるもんね」

 


納豆とご飯だけが入ったお弁当を持ってきていじめられたたかしくん→納豆うめえな、で解決

イボーン「いじめてる側も納豆がうまいまずいでいじめてるわけじゃないと思う」

 


昼寿司、うまかったので夜も寿司を食いに来る流れ

 


弁当で弁当だしたら弁当屋では?

 


1.2巻と3巻以降で話が変わるので混乱する

 


ヒューマンドラマを長くやると不幸な人しかいなくなる

 


はるしげ「いよいよ『あ』の話するか」

 


将太の寿司はループもの

将太は大体リードしつつ油断して「あ…!」

勝って嬉しいときも「あ…!」

「あ」と射精

コピペ?→この時代はコピペ当たり前だった

全部同じコマでオチの漫画もあった

 


ゴリオスレ民はるしげ

ハモリプロ

 


漢字いっぱい→カタカナ  たろちん「椎名林檎のアルバムじゃねんだから」

 


はるしげ「将太の寿司ももう語ることないかなあ、アサクサノリは焼いたしなあ」

「牡蠣も押し付けたし…」

 


打ち切り続きの頃にでた将太の寿司2

2は社会派の内容

常識はずれなキャラが主人公なのが趣味な寺沢

ミスター味っ子を一番読んだのに面白くないと言うはるしげ「色んなご飯が見たい」

 


寺沢が好きにやると打ち切りになる

 


毎話突っ込みたくなるたろちん

イボーン「俺は読むことはないかな」

はるしげ「ええ!?対戦相手の冷蔵庫の電源切る話とかあるんだよ!?」

イボーン「それで読もうって思わないでしょ」

はるしげ「車のドアに将太の手挟まれたりとか」→試しに3巻まで読んでください

おかしさは流れで見ないとわからない

 


たろちん「俺は別に将太の寿司を面白いと思って読んでないんです、そんな馬鹿な!?と思って読んでる」まともになるのを待ってる

 


ツッコミの教科書

 


めちゃくちゃ楽しそうに話してた二人

無理やりテンプレ良い話にした漫画

こわすぎにちかい

 


将太は薦めない、けど読んでほしい

ヒューマンドラマの皮をかぶってきつつおかしいから読み込めない?怖い

 


読むと、何か言わないと気が済まなくなる

読んだら一人で将太の寿司配信やりだすはず

 


親方の仲よかった女の子が幽霊で出てくる話がある→イボーン「もうだめだわ」

幽霊とわかってて幽霊に寿司を握る

寿司食べて消える→イボーン「酢かなんかにやられたんじゃ」はるしげ「多分食い逃げだよなこれ」

 


牡蠣の鮮度を保つためにバイクで200キロ

 


はるしげ「奥深さが伝わったでしょ」イボーン「う、うむ、うーん」

 


普通に読むとしんどい

おかしい!→そんなわけない!と読み続けてしまうたろちん

 


シャリを毎回決まった分量とれる→イボーンもスロットで毎回コイン掴むと3の倍数取れる

 


おからとコンニャクはミスター味っ子でもでてくる

 


シンコは無能リターンズ

整髪料を持ってるシンコ

はるしげ「坊主のくせに」イボーン「はるしげさんも持ってるでしょ」はるしげ「持ってねーよ!」

イボーン「学生時代のとか」はるしげ「20年以上前だぞ!」たろちん「あ…!」

 


たろちん「もう4時ですよ」→築地は2時からやってるぞ

はるしげ「この煽り文句よく使えるな」イボーン「使えないでしょ、まおに言うくらいでしょ」

終電逃したまおに、「まお、帰るか?築地は2時からやってるぞ」

 


築地に2時に行くために丈夫な十段変速を買う将太

イボーン「まおに買わせましょう」

百目の辰の問題発言「お前毎晩寝てるんだろ、築地は2時からやってるぞ」

たろちん「お前毎晩寝てるだろって」はるしげ「当たり前だよ」たろちん「みんな寝てるだろ」

たろちん「将太も朝から鳳寿司で働いてるからそりゃ寝るよ」

たろちん「普通の暮らしだもの」

イボーン「まおにお前毎晩寝てるだろって言ったら、はいって言うよ」

たろちん「何がいけないのって言われるよ」

 


そこから将太の寝ない伝説が始まる

たろちん「あそこで明確に引いたもん、寝ればいいのにって」

 


こんな深夜4時まで語れる漫画ない

百目の辰回だけ読むイボーン「ええ、百目の辰こんな若かったのか、じじいみたいなの想像してたわ」「目がギンギンだ、これは寝てない顔してる」

「辰さんこれはなんていうエビなの?」のコマで何故か辰に集中線入ってる

 


イボーン「読もうと思ったら寝れねえよ一週間」

はるしげ「お前毎晩寝てるんだろ」

イボーン「あ…!俺は将太の寿司を読まないで寝ていた…」

 

 

【本】菅野 仁『友だち幻想』

菅野 仁『友だち幻想』

タイトルに惹かれたのと、ピース又吉さんがテレビでおすすめしていたのが気になっていたので読んだ。
10年前の本なのだけど、今すごく売れているらしい。
読んでみたら、売れる要素しかなかった。未来を見据えた、現代の若者に向けた本だったんだ、これ。

私なんぞはもう若者といえないかもしれないけど、共感の嵐。

 

この本、筆者があとがきにも書いてらっしゃるけど、「友だちなんて無駄、友だち作るなんて幻想」という本ではありません。全く。

「みんな仲良く」「自分の全てを理解してくれる人がいる」というのが幻想で、
そんな幻想を信じるより、「合わない人はいる」「自分と全く同じ人なんていない」と考えよう。人生には合わない人とも付き合っていかなくてはいけない状況はあるんだから、自分とは違う人の異質性をきちんと受け止め、適度な距離感を持って接していこうね、というお話。

 

こうしてまとめてみると至極当たり前なことなんだけど、それを適度な分量で、適度な深さで流れを持って書いてくださっている。感覚としては、ツイッターとかでたまにバズっている共感を生むツイート群に近いのかもしれない。
全く難しいことは書いていないけど、「あ~~わかる~~~」とひたすら頷けるし、それこそ今、「みんな仲良く」で悩んで生き辛さを感じていて、突破口が見つけ出せずにいる若い世代が読むべき本なのかなあと感じた。


内容の中で特に印象的だったのが、コミュニケーション阻害語というもの。
最近流行りの若者言葉(本が書かれた2008年当初の、ですが今にも通じます)についてのことなんですが、例として「ムカつく」「うざい」という言葉。これらは、自身の感情をぶつけ、一刀両断して相手とのコミュニケーションを拒絶する力があります。これは、「相手が自分とは違う」ということを少しも受け止めることなく、排除しているところに問題がある。その他にあげられた「ていうか」「空気読めない」なども同様で、コミュニケーションをよりとりづらくしてしまうと同時に、言葉を必死で考えて感情を表現する力も薄めてしまうといったことが書いてあって、読みながらすごく唸りました。

 

特に後半の、言葉を必死で考えて感情を表現する力という点が、ものっすごい胸に刺さります。何事に対しても言葉を必死で考えて感情を表現、したいよね。したい。したくない? できないとき悔しいんだけど! 「エモい」で片付けちゃうとき実はわりと悔しいんだけど!!

 

乱れました。

後、「自分が気に入らない」ことを、特に理由なく相手にぶつける人って、本当に凄くいっぱいいる気がする。私自身、過去にもそういう内容をよくブログに書いているので、もう、普段から考えすぎているくらいに考えていることでした。何事も、みんな考え方や捉え方が違うということを、忘れがちなんだよなと日々思いまくっていて、そういう話だけをつまみに飲み会ができるくらいには多分考えていると思います。

だからこそ自分自身としても、何かを語るときはしっかり考えなくてはいけないなと思う。世の中には他者がいる、異質があるということを。

 

そういった他者性、異質性というやつに関して、最近、ドラゴンボールを批判するために読んだっていう人がいて色々話題になっていたときも、感じたことがありました。

liginc.co.jp

ツイッターで色々書いたけれど、まず前提がまずいですよね。
ドラゴンボールを読ませた先輩は「勉強になるから」という理由を一応暗に示してはいるけど、何より「読んだことがないなんてありえない!」と強引に読むことが絶対だという押し付け方をしているし、記事を書いた側は「とにかく読め」と押し付けられたということから感情がすでに否定的になった状態で「批判するために」読み進めちゃっているし。そもそも分かり合えないという以前に、読むまでのコミュニケーション不足が目立つお話だなあと感じました。
それこそ、お互い自分とは違う考え方の相手がいるという意識が足りていなかった故にすれ違ったのではないでしょうか。

(もちろん、記事上でしか読んでおらず、実際の状況はわからない上で思うことですが)

 

私は「ドラゴンボールを批判するなんて!」とは思わないし、ドラゴンボールに限らず、全ての作品において肯定・否定、様々な意見がむしろあってほしいと思っています。むしろ「誰だってドラゴンボールが好きなはず」という考え方は危険だし、それこそ自分以外の人のことを考えられていません。

だから否定であっても肯定であっても、自分とは違う意見のある人がいることも視野に入れた方がいいんじゃないかなと考えます。もし本当に「ただただ気に入らない」と思うんだったら、それを最初にちゃんと主張した方が読んでいる方もスムーズに読めるんじゃないだろうか。ちなみにドラゴンボールの記事の人は、理由をちゃんと書いているわけですが、その理由の内容も含めて批判が来たのもあると思うのでそれはそれで仕方ないと思う。


私見にせよ何にせよ、理由ってとにかくあることが大事。理由もなく批判するっていうのは、何より読み物・意見として面白くもなんともない気がする。いや、受け手の立場に限らず、発信する側としてもそうなんじゃないんだろうかと思う。私だったら、何かについてコメントを述べるとき、「うざい」「ムカつく」だけで終わらせるならわざわざ書かなくてもいいんじゃないかって思います。批判するんだったら自分の中で批判する理由をちゃんと形にしてからじゃないと批判できないし、それが批判する者のルールだと自分の中で考えている節があります。もちろん自分の中でだけで、そう考えない人もいて…となるとそれこそ堂々巡りしてしまうんですけど。


本からちょっと話題が反れてしまったけれど、とにかくそういう、日常でよく出会ったり目にしたりする人間関係のトラブルとか、ネットにおける炎上とかの背景も含んで書かれている、10年前の本なのに非常に今に通ずる、興味深い一冊でしたというまとめです。引っ張っといてこの単純なまとめ…。

 

全然関係ないんですが、討論会や合評会みたいな話し合いの場って面白いと思います。中には自分や自分の好きなものに対する批判的な意見なんて聞きたくないって言う人もいると思いますが、相手が「お前はおかしい」と人格否定するようなことを言わない限りは、わかりあえないことがわかるし、自分の感情や意見を言葉としてアウトプットする練習にもなるし、それを好きな自分にとってすんごい収穫あるんじゃないかなあと、感じます。