日々霜

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【本】川上未映子『愛の夢とか』

 

年末に、今年読んだ本の話。しかもつい最近読んだ本について。
でも、今年読んだ本の中でも凄く印象的だったので、書く。
 
 

川上未映子愛の夢とか』


 
谷崎潤一郎賞を受賞した短編集。どの話も良かったのだけど、最初の「アイスクリーム熱」、そして最後の「十三月怪談」について書く。
 
まず、「アイスクリーム熱」内に登場する愛の表現にしびれる。それだけ。

アイスクリーム屋の店員である「私」が、毎週同じメニューを買いにやってくる青年を好きになる。「私」は青年の好きなところを、次のように語る。
 

少し意地悪そうな彼の一重まぶたの目が好きで、でもそのよさをどうやって表現すればそれをちゃんと言い終わったことになるのかがわからない。こういうときに比喩みたいなものがぱっと浮かぶといいのだけれど、わたしにはよくわからない。だから、 切れ長の、とか意地の悪そうな、とかそういった何も言ってないのと同じような言い回しでしか記録することができない。でもそれも悪くないなと天井をみながらそう思う。うまく言葉にできないということは、誰にも共有されないということでもあるのだから。つまりそのよさは今のところ、わたしだけのものということだ。


 
これ。
しびれる。
細部まで論及するまでもなくこのそのままさが。
小説って「この繊細な描写が~(もしくは比喩が~等)登場人物の感情をあらわしてる」みたいに褒めることがよくあると思うのだけど、あらわせないということも不器用な人の愛の形をはっきりと切り取ることになるのだな、としみじみしました。それに尽きる。以上。
 
 
そして、私の心が持っていかれてしまった「十三月怪談」についてなんだけど、まずこの小説について語る前に私の話をする。
 
昔からなのだけど、私は死ぬのが怖い。いや皆怖いんだろうけど、酷いときは寝れなくなったり、息苦しくなったりする。こういうの、タナトフォビア(死恐怖症)というらしい。余談だけれど、症候群とか恐怖症 、何にでも名前があるのはちょっと安心したりする。自分だけじゃないから名前があるのだ、と思うから。
 
死ぬっていうのは例えば突然の大地震とか、後ろから刺されるとか、色々あるのだと思うんだけど、私は交通事故とかよりは、とにかく地震とか戦争とか、私じゃあどうしようもないことっていうのが特に恐い。
大学生くらいになってからはしばらくなかったのだけれど、今年はそれこそどうにかなってしまうんじゃないかなってニュースが多くて、恐怖症再来、見事に苦しんでしまった。今は「考えても無駄なことは考えない」という自分の性質とは真逆なことをなんとか言い聞かせるようにして、考える脳みそをなんとか止めているのと、不安になってしまうような記事はできるだけ読まないようにしている。
 
というふうな、私個人の前提があって、「十三月怪談」の話。
話の概要を書くので、ストーリーのネタバレにはなります。ただこの小説において重要なのは細やかな表現、文章の表情、読後感なので、ネタバレであっても問題ないかなとは思っています。
 
この話に出てくるのは二人の夫婦で、その妻・時子は、凄く心配性な性質で、そう、タナトフォビアなんです。
時子は身体の慢性的な不調から病院に行き、血液検査をすることになる。その検査結果を聞きに病院に来てください、と言われるんだけど、そのときも「これで死ぬことになったらどうしよう」とすでに死の宣告をされたかのように動揺しちゃって、夫・潤一に「まだわからないことをなんでそんなに心配できるのか」と言われちゃうんですね。この潤一の感覚が多分それこそ、真っ当だし、その通りなんだけど不安には抗えない。私にはよくわかりすぎます。
 

しかしこの時子さん、その心配していたことが現実になってしまい、若くして亡くなってしまうんです。
ここ、驚くほどさらりと亡くなるので、あれ? え? と二度見した。
そこからは、死んだ時子の意識のようなものが、自分が死んでからの潤一の生活を見るというのと、潤一から見た時子の死について、それぞれ別の視点であり時系列なども別個の世界の話があって終わる小説。と言い切ってしまっていいのかもわからないけれど。
 
読み終わった後、この小説に対しての感想を検索したのだけど、結構この話についてはパラレルワールドとか幽霊譚とか書かれている感想がよく目に入った。
そこで、この短編集自体の話に戻るんだけれど、2011年の東日本大震災を受けての感情などを暗に書いた話ばかりなんですよね。この「十三月怪談」もまさにそれだと思います。そしてこれはただの予想なんだけれど、死について考えてしまう人って、考えて考えて、いつ自分が死ぬかなんてわからない、あらがえないのだ、と悟ったとき、死んだ後に「無」になることを恐れた人が考える存在こそが幽霊とか不可思議な現象(それこそパラレルワールドとか)なんじゃないかなと思うんです。別にそういう世界が本当はないって言っているわけじゃなくて、死が恐い人が死後の可能性として作り出すものでもあるってこと。
それを踏まえて、この小説は、「死」についてどんなに恐くてもどうなるかわからなくとも、人は死んでしまうし、死んだら死んだで物語が進む。という、穏やかな死後の展望ができる話だなと感じたのです。
死についてずーっと書いているんだけど、不思議と恐くなくて。前述しましたが、時子はあまりにもあっさりと亡くなるんですよね。死の宣告を受けてからの、死ぬのが恐い、いやだ!! という描写はあるんだけど、それは全て淡々としていて。タナトフォビアな観点を書きつつも、死に直面したときの感情を感情的に書かない。そして死んだ後の時子はさらに様々な感情の波が大人しくなっているんですよね。一方潤一は、それこそ死んだように気落ちしながらも、自分は生きているから、とだんだん立ち上がったりする。
そんな時子の死後の不思議な明るさと潤一の姿を比較して見ていると、悲しいのも、寂しいのも、辛いのも、生きている人間だから持てる感情であり、生きているからこそどん底があるんだよなあと強く感じてしまいます。
そ れがいいとか悪いとかじゃない。でも、なんだかちょっと、死や生をこう捉えてもらえると、少し安心できるような気が、ちょっと、ちょっとだけ、した。

 
余談だけれど、この短編集内の別の話に、漫画家「大島弓子」が名指しで出てくることから考えて、「十三月怪談」は『四月怪談』から来ている可能性。

 大島弓子、母親の影響で読み漁っていて、漫画界の純文学のイメージで好きです。しかし『四月怪談』は未読。偶然なんだかなんなんだか。この機会に読みたい。
 
ちなみにその他、2017年で印象的だった本は ↓

bookmeter.com
今年は読んだ本が少ないので選んだ本も少なめ。

らいねんもよいどくしょを。