日々霜

本とかゲームとか雑記とか小説とか。好き勝手。

自分のことなど基本的に誰も見ていない

基本、自分のことなど誰も見ていない、ということを前提に色々な物事を考えているし進めている。


ただ、矛盾するかもしれないけど、自分自身はそこそこ、興味の沸いた他人のことを見る人間だ。それも、勝手に期待したり勝手にがっかりしたりする。でもそれが自分の勝手な感情だとわかっているから、本人に伝えることはない(親しい間柄だったら注意として行うことはあるかもしれない)。そして私に限らず、他人に口出しする人というのは、かなり大きなコミュニティじゃないとなかなか見られない。逆に言うと、有名人のツイッターにはほぼ確実に自分の意見が正しいマンとか聞かれてないけどお気持ち表明マンとか、所謂「クソリプ」が沸いている。
というところで、基本的に自分のことなど誰も見ていないし、見ていたとしても、有名人でもない限りは、自分の行動を他人に咎められることは基本的に、ない。


私自身、誰も自分のことなど見ていないことに救われたことがある。学生時代の文化祭のときのことだ。
北海道の文化祭の出し物として定番なのは、よさこいソーラン節だろう。クラス対抗で、オリジナルの振り付けを披露して審査してもらうものだ。メイン種目ということもあり、各クラスごとに集まり、朝練や放課後練習を繰り返し行っていた。本番当日の朝ももちろん、練習は欠かせない。
そんな文化祭当日の朝、私は思いっきり寝坊した。遅刻、朝練はとっくに終わっている、もうダメだ、クラス中が私を軽蔑の目で見る、と絶望に打ちひしがれた。その結果、もう文化祭には行かない、というところまで私の思考は飛躍しかけていった。
それを止めたのは姉である。「そんなことで、学生時代しか味わえない文化祭に行かないのは絶対にもったいない」「朝練サボったくらいで誰も咎めない」と私をまっすぐ説得した。今思えばもう、絶対的に正論なんだけど、私は何度か渋り、でも姉の圧に耐えかね、少し遅れた開会式の途中から無事文化祭に参加したのであった。周りのクラスメイトにごく普通に挨拶をして、ごくごく普通に会話して、開会式を見て。到着して五分も経てば、何を気にしていたのかよくわからなくなっていた。
それから十年以上は経つけれど、未だにこの経験を思い出す。私はあのとき、大分勝手に一人で悩んで、姉の言葉で救われて今に至る。


また、誰も自分のことなど見ていないことを書きつつも、誰かが見ていることで救われたことももちろんある。
誰も見ていない、と言いつつSNSやブログに公開するのは、誰も注視していないかもしれないけど誰かがたまたま見るかもしれないから、まあ見るんだったら見てくださいね、という気持ちがある。書いたなら公開しないと気が済まない、などと以前書いたけど、私にとっての自己顕示欲は多分そんな感じでなんとかまわっている。好き勝手に書くことで満たされるものが何かしらあるのだ。

 

などなど考えているけれど、当時の私がそんなに周りを気にしていたというのも、「なんでそんなことを気にしてたのか」とも思えない。学生時代というのはその学校生活が、クラスメイトが、やたら大層なものだと思い込んでしまう傾向があると思うからだ。
というところで、以前私が完全に寝坊して会社の始業開始時間に起きて「寝坊したので今から行きます」と会社に電話した後のツイートでしめたい。




随分図太くなってしまったものである。
これはこれで問題があるけど、書いている通り、思考的にはわりと楽。