日々霜

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人を神様扱いするのに向いてない

「神」という言葉が凄く一般的になっている、と思う。

 

恐らくだけど、ネット社会の発展ならではのものなのかな。

「神展開」とか「発想が神」とか。何かと、自分の心が動かされたものについて、神、神、というようになったと思う。と、自分で書いててちょっとデスノートの魅上を思い出した。でもああいう感じ。

 

自分自身も、使わないことはない。特に「神展開」「神回」あたりはよく使う気がする。多分この「神」ってのは、そのくらい軽い気持ちで凄さをあらわすのに向いている言葉だから、あんまり深く考えて使うべき言葉じゃないってこともわかっていて、自分でも、だからこそ使えているところはある。

 

ただ、そんな前提があっても、自分の「神」という言葉の使い方が人と違うときがあるような気がしたので、なんとなく形にするためにこのブログを書いている。

 

タイトルの話になるのだけれど、私は、「展開」や「回」など、「もの」に対しては気軽に「神」と言えるのだけれど、「個人」を神扱いすることに向いていないのだと思う。

 

 

まずここでややこしいので断っておくと、私が人を神扱いしたことがないわけではない。

例えば、デビッド・ワイズという人がいる。

知っている人も多いと思うけれど、作曲家であり、ドンキーコングのBGMを作った人として有名だ。最早説明する必要がないくらい良い曲をいっぱい作っている。

そんな彼の曲について、「神曲」という表現を私はよく使うし、「ゲームBGM界の神」と表現したこともある。

 

そういう、自分がだらだら独り言として語っているときに気楽に「神」と表現できるタイプの個人が何人かいる。なんせ、「神」って、すごい、と表現するよりドーンとパワーのある言葉で、簡単にすごさを表現できて楽なのだ。

 

一方で、もしデビッドワイズについて、全く知らない人に説明してほしい、と誰かに言われたときに、私は「神曲が~」とかは言うかもしれないけど、そこまで彼を「神」扱いするような発言はしないのではないかと思う。

 

とここまで書いたけれど、ぐえ~伝わりづらい、と思ったので、もう少しぶっちゃけた感じで書く。簡単に言うと、誰かを神扱いした瞬間に、今の時代に凄く一般化された「神」という言葉が、本来の宗教的な言葉に戻ってしまうような気がするのである。

 

軽いはずの「神」が、本来のおも~くて簡単に表現できない「神」になってしまう。

だから、私はそういう意味での「神」を使えない。

 

宗教性を感じると、拒絶反応を起こす人っているよな~という話。いや、まさに私なんだけど。

根が天邪鬼すぎるので、「これはすごい!」「これ以上のものはない!」と必要以上に推されると引いてしまったり、ハードルを自分の中で凄いあげちゃったりしてしまい、素直に物事を評価できなくなるのです。

あ、結局のところこれが結論です多分。今回うだうだ語っている話の全てに通ずる。はい、これが結論でいいです。はい。私が何かにハマるときは自主的、もしくは、誰かにこっそり、自分でも気付かない温度で推されたときだから、私が誰かに何かをおすすめするときも、さりげなく、でもうまい感じでありたいなと、そう思ったとかそういうあれです。はい。たろちんイボーンラジオをおすすめするブログも現在作成中なんですけど、丁度良い感じで書きたいなって思います。そういう文章が目標でもあります。

 

 

ここで脱線した話も一つ。極端に言えば宗教など、自分の信じるものが確立している人というのは、正直なところ羨ましい。これ、何回も多分書いたことがあるような気がするけどあらためて。

以前、宗教勧誘に1時間くらい付き合ったことがある。暇人かよ。たしかに暇だったんだけれどさ。ただそのとき、神様が素晴らしいということを物凄くオブラートに包み込んだ言葉をずーっと聞いていたんだけれど、やっぱり私にはその素晴らしさを感じることができなくて駄目でした。

※今思えば相手が男性とか、感情的になったとき力で勝てなそうな人だったら危なかったなとは思うので、あまり真似はしないでほしい。私はただ好奇心だけで話を聞き続けていたから。

 

私は信じることができないけれど、信じるものは救われる、という言葉があるように、信じることができれば、それだけで自分の気持ちが救われるのは間違いないと思う。不安なとき、何を頼ればいいかわからないとき、絶対的な道しるべみたいなものがあるというのは、すごーく救われると思う。

 

 

 

ということで、今回の長ったらしいブログも、「神、とやたら言われると引いちゃう自分の問題でしたー」という結論なわけですが、自分を悩ませるのって結局のところ自分だなと思います。全てを受け入れられるのであれば問題ないんだけど、でも、他人に作用されないのってもはや自分じゃなくない? とも思うので、多少自分が苦しむようにできているのですこの世の中。生きづらくて当たり前。

 

全てを受け入れて、自分がなくって、自分じゃなくてもいい人って、それこそ、ある意味皆が好き勝手に理想の姿に想像する、神に近いんじゃないですか。

と、噛み付いて終わります。