日々霜

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【創作】バットガール

バットガール

 

 流されてしまいたくて、海に来た。失恋したからなんて、誰にも言えない。友人たちが知れば、ダサいと罵られるに違いない、と香織は恐れていた。

 背が高く細身の香織の周りには、香織と似た体格だが香織とは性格が全く似ていない女性が多く集まった。強い酒をラッパ飲みし、男に媚びる女など時代遅れだ、ハイヒールで踏んでやる、と言いだしそうな友人たちが恐かった香織は、自分が依存の強い恋愛体質であることを言えずに過ごしていた。

 別に依存したくてしているわけじゃない、と香織は思う。しかし、すぐに自分が今すぐ流されたいことを思い出して辛くなった。流されたい。石のように転がされて転がされて、角がなくなって丸くなってしまってもいい。そう思っていたのは彼と付き合っていたときも今も同じだ。彼がAというならAとしたかったし、やっぱりBだというなら初めからそうだったかのようにBにしたかった。「自分がないのよ、あいつらは」と友人がたまに愚痴る職場の女々しいおんなのこのことを、香織は愛想笑いでしか返すことができない。香織は彼に会うまでの自分の感情のことを思い出すのが難しい。彼が食べたい、と呟いたので季節はずれの茄子を買って和風パスタを作った。彼と一緒に行ったトルコが一番好きな国になった。元々あった自分の形を忘れてしまうほど好きな人がいるのは、幸せとは言わないのだろうか。香織は誰にも聞き出せない。

 昨日散々泣きわめいて、今日は仕事も休んで、ただ、海、海に行くんだ、としか考えが及ばなかった。ただ流されたいだけ。この気持ちを、広い場所へ投げ込みたいだけ。でもいざ着いてみると、海は波の音がしない程に穏やかで拍子抜けし、流されるために足を踏み込むのは最終的には自分の意思でしかありえない、と悟り香織は気落ちした。私が水でない限り、海にすら帰ることができない。

 

 どうしようか、とようやく立ち上がる。タクシーを捕まえて適当にやってきた海だったので、土地勘もない。ふと周りを見渡し、砂と岩の境界を仰ぎ見ると、視界にうつる海岸線の端の方に、小さな洞窟があることに気付いた。そろそろ陽が沈もうとしている中、その洞窟は真っ黒く口を開けている。光の入る隙間もないようだった。誘われるように、香織はそちらへと歩き出す。何故この靴で来てしまったのだろう、と香織はすでに到着してから十回は考えた。服も靴も、香織の今の持ち物は大抵彼と付き合っていた頃に買ったものだ。場違いな赤いパンプスを引っ張るように砂を踏み、「ざる、ざる」と軋む音を聞く度に、泣き嗄らした喉に引っかかるような気持ちになる。何度も軽い咳をした。目の前まで来てみると、色あせた木の看板がすぐ横に立っていることがわかった。一応観光名所のようなものらしいが、辺りに誰も人はいない。封鎖しているつもりだということはわかったが、雑なチェーンが香織の腰の位置あたりまでぐるぐる巻きにされているくらいで、大人、いや中高生であっても、飛び越えてしまえるくらいのバリケードだ。

 その暗闇に入ろう、というのは香織にとって必然な意思であるように思えた。多分、人の将来の果ての果て、死んだ後はきっと暗闇だ。寝ているときも、意識はないけれどきっと暗闇の中にいる。私の身体は海よりもこちらに馴染むのではないか、と香織は考える。広さも深さもわからないその黒。いつか観た洋画では、こういう洞窟から新たな冒険がはじまったりする。あの主人公たちのように胸は高鳴らないのは仕方ないのだろう。冒険があればそれでいいんだ、と思っているんだから。スカートの端を押さえながら足を高くあげ、チェーンを乗り越えようとしたとき、何か小さな生物が斜め上の角度から香織にぶつかった。

 腫れた喉は悲鳴すら生まない。香織はバランスを崩しながら、暗闇の手前で尻餅をつく。香織を襲った小さなそれは、ぶつかった衝撃ですこしよろめきながらも空へと羽ばたいていった。

 

「コウモリ」唖然としながら一言だけ呟く。香織はそのままの姿勢で、どこかにいってしまうまでしばらくコウモリの動きを目で追っていた。

 立ち上がり、腰の砂を払いながら、あんなに近くでみたのは初めてかもしれない、と思う。ていうか、コウモリって、あんなんだっけ。蝶でもなく、鳥でもなく、コウモリ。羽が生えている生物の中で、コウモリは少し異質なように感じた。「普通に、飛ぶのね」香織はひとりごちる。羽ばたいて、風を切るように、普通に、飛ぶ。コウモリって鳥でもなければ虫でもないのに、あんなに飛ぶんだ。

 モモンガはたしか、飛んでいるのではなく滑空しているのだと聞いたことがある。なんとなく、コウモリもそれに近いものだと思い込んでいた。意外、だなんて思われる筋合いもコウモリにはないだろうけれど、今までコウモリについて考えたことすらなかった香織には、羽ばたく哺乳類がいるんだ、と驚いた。コウモリの体当たりで、冒険の主人公として歓迎されていないと示されたような心地になった香織は、黙って洞窟を背に歩きだすことにした。

 

 無人の海を振り返ると、暗くなった空と海の色が似てきている。そのうち二つが混じりきって、地平線がなくなってしまいそうだった。砂浜はどこまでも平坦に広がる。砂でお城を作る子どもというのは絶滅してしまったのだろうか。それか、作っても、いつかは波にさらわれてしまうことを知っているのかもしれない。香織は彼を失うと同時に自分も失った。元気なんて出ないし、明日仕事に行ける気もあんまりしない。友達に話したら馬鹿にされそうだけど私は弱いし、何かに流されたいのは変わりない。それに、彼に出会う前の、私の元の形はもうどこにも落ちてそうにないとわかってしまった。でも、元の私がどこに流されたのか探すよりも、今形のないまま流れようとするよりも、新しく流れやすい私を作るほうが早いのだ、きっと。コウモリのとんだ方向はどっちだろう? 香織は何もない空を見ながら考えた。そろそろ、星が見えてくるはずだ。